はらまちの文化財 4「のまおいずのびょうぶ」
種別 市指定 民俗文化財
指定年月日 平成5年9月1日
所在地 南相馬市立博物館
所有者 南相馬市
大きさ 縦1.7m 横3.46m(6曲一双) | | 右隻(みぎせき)は、下方に野馬木戸(原町木戸か)を通り野馬原に入る緋母衣(ひほろ)の騎馬行列と見物衆の姿を華やかに描き、左端には陣立(備え)隊形、画面中央には野馬を追う様子、さらに右上方には、陣幕をめぐらし幟(のぼり)、旗をひるがえす御本陣、備陣(そないじん)の情景を躍動的に描き、山際には立切の姿も見えます。 左隻(ひだりせき)は右隻に連続する情景で野馬原で追い下げられた野馬が木戸(巣掛場木戸か)から追い出され、野馬道の途中で潮水に入り(野馬沢の海岸で潮垢離(しおあかり)をとるようすか)、南進して小高古城跡の竹矢来の中に入り、古城跡の妙見宮の前で御野馬掛(のまかけ)(懸とも書く)を行っている様子を刻明に表しています。 |  右隻
 左隻 |

参 考 作者、時代とも不明であるが、江戸時代後半期と推定されます。なお、作者は藩の絵師か、狩野派の画法を習得した人物と考えられます。 緋母衣――藩主かその名代が着用するものです。 |
「ばばのかぐらななげい」
種別 市指定 民俗文化財
指定年月日 平成7年5月1日
所在地 原町区馬場
所有者 馬場民俗芸能保存会 | | 馬場村の修験観行院(しゅげんかんぎょういん)(後ち一明院)の法印と修行院(しゅぎょういん)の法印が文化年間獅子神楽(ししかぐら)の余興として、「万歳」「鳥刺し踊り」「鬼踊り」「茶屋建踊り」「おいとこ」「田植え踊り」「大黒舞」の神楽七芸を習得し、肝入、検断、村長、百石頭等と相談の上、村の若衆に教えたのが始まると伝えられています。 正月や鎮守の祭りなどに神楽が毎戸ごと巡って悪魔払いや、火伏せ、雨乞いを祈願して舞い歩いた時、肝入りや宿の御礼として神楽七芸が踊られました。 明治に入って村若衆から青年会が引き継ぎ、現在は、馬場民俗芸能保存会に改組され現在に至っています。 |  おいとこ踊り |  参 考 4年に一度4月の第一日曜日に、綿津見神社大祭のときに神楽七芸の一部が披露されます。 肝入―――村の世話人 検断―――村役人 |
「きたかいはまのてんぐまい」
種別 市指定 民俗文化財
指定年月日 平成7年5月1日
所在地 原町区萱浜
所有者 北萱浜神楽愛好会 | | 嘉永元年(1848)、萱浜発業により北陸から新たに入植した50戸を創設したとき、天狗舞を行ったことに由来するといわれています。 以前は若衆組により組織されており、天狗面をかぶる者は体格強固な若衆の中から選ばれていたといいます。一時20年間ほど中断されたが、昭和54年に「北萱浜神楽愛好会」が結成され保存伝承に努めています。 踊りの前半は天狗の単独踊りであり、後半獅子との共演となる。天狗と獅子の喧嘩に見えるが、天照大神と須佐之男命の競いを民芸風に作り上げたものと思われます。 |  |  参 考 踊りは毎年2月の初午に、北萱浜の稲荷神社に奉納しています。 |
「どうせいわにぐち」
種別 市指定 美術工芸品
指定年月日 平成12年2月1日
所在地 原町区江井
所有者 寳玉義信
形状 面径左右最大12cm 厚約4.6cm | | 本鰐口は正長元年(1428)の室町期にに製作されたものです。福島県内で現在ある室町期の鰐口で指定文化財とされているものは、国指定文化財1点、県指定文化財7点のみです。形状としては、二重重の内圏線があり、外区線に二重の圏線(けんせん)・目の突き出しが短いことなどが見られ、また撞座(どうざ)区には撞座を持たないなど、室町期の鰐口の特徴を示しています。 この鰐口について『奥相志』に「辯財天祠堀内にあり・・・・正長元戊辰建立す。祭日3月15日。別当山伏光山院」と記載されており、古来より寳玉家に保管されていた鰐口です。 |  |
 参 考 本作の撞座を無文とする圏界線の表わし方、鼓面の甲盛りや目・唇の張り出しが穏やかであることなど、その作風は室町時代の鰐口の特色をよく示しています。 |
「どうせいわにぐち」
種別 市指定 美術工芸品
指定年月日 平成12年2月1日
所在地 原町区江井
所有者 寳玉義信
形状 面径左右最大19cm 厚約5.2cm | | この鰐口は『奥相志』に「先手観世音辻内にあり。・・・別当修験田中山大仙院。尊像長八寸。堂創建来歴不詳。元禄九丙子の年邑の住志賀助五郎寄進の鰐口あり・・ ・・」と記載されています。 形状としては、二重の外圏線、三重の圏線で内外区を区分している。撞座区は二重の圏線で区切られ、素弁八葉蓮華文が見られます。奉納者の志賀助五郎については不明ですが、裏面に本重作と銘がありこの鰐口の製造者と思われます。 『奥相志』に「小高郷上浦村 鋳工半谷氏古昔の人 大和田勘太郎後今斉藤今に鋳工なり」と記載されています。従ってこの「本重」は小高区の上浦に元禄ころから本貫地として活躍していた大和田勘太郎本重と考えられます。 |  |
 参 考 大和田勘太郎は、この地方を代表する鋳物師です。文献では岩瀬郡天栄村更目木山ノ神にある『元禄十年(1624)本重作』が初見ですが、大和田作品で残されている最古の資料がこの鰐口です。 |
「さくらいこふんぐんかみしぶさななごうふん」
種別 市指定 史跡
指定年月日 平成12年2月1日
所在地 原町区上渋佐字原畑
所有者 南相馬市
大きさ 方墳 1辺27.5m 高3.3m |  | 土器から4世紀後半に造られ、埋葬された人物は古墳時代前期に新田川流域を治めた有力者の1人であったと考えられます。古墳の頂上には大きな墓穴が掘り込まれ、墓穴の底に近い所には板材を組み合わせて作られた木棺が納められていました。木棺の中からはヤリガンナと銅鏡1面が出土しました。おそらくヤリガンナは王の腰元に、そして銅鏡は王の胸元か頭部近くに置かれたものと推測されます。桜井古墳に埋葬された人物との関係は分かりませんが、親子のような極めて近い関係の人物であったのでしょう。 |  |
 参 考 出土品は南相馬市立博物館に展示してあります。 |
「かみしぶさななごうふんしゅとどどうきょう」
種別 市指定 考古資料
指定年月日 平成13年9月1日
所在地 南相馬市立博物館
所有者 南相馬市
大きさ 径8.7cm
|  X線写真 | 桜井古墳群上渋佐7号墳の埋葬施設から出土した銅鏡です。古墳時代の鏡は有力者の権威の象徴とされ、様々な種類の鏡が造られました。本資料は鏡の背面中央にはヒモを通す『紐』が見られ、その周囲には六重の圏線がめぐります。紐から数えて2重目と3重目の間、3重目と4重目の間の2箇所に珠文と呼ばれる点の文様が見られます。このような鏡を総称して『珠文鏡』と呼びます。7号墳に副葬された主文鏡は布に包み、それを木箱に入れたうえで王の胸元もしくは頭部付近に置かれていました。本資料は出土した土器の年代から4世紀後半(古墳時代前期)に造られた鏡であると考えられます。 |  布に包まれた銅鏡 |
 参 考 出土品は南相馬立博物館に展示してあります。 |
「のまどて」
種別 市指定 史跡
指定年月日 平成14年11月5日
所在地 原町区上渋佐字原畑
所有者 南相馬市
面積 2,403平方m | | 奥州中村城3代城主相馬忠胤(そうまただたね)が、牧に保護した野生馬(野馬)の散逸と野馬による農作物の被害を防ぐため、寛文6年(1666年)から築かせたものです。 野馬土手は、西は馬場の石住から東は萱浜の巣掛場まで約8km、南は羽山岳から北の四ツ葉通りまで約2kmを細長く取り囲む幅約5.4m高さが約2mの土手で、内側には堀も築かれました。 また、阿武隈山地に放牧されていた野馬の管理のため,阿武隈山地の東麓にも野馬土手が築かれ、高ノ倉ダムの東から横川ダムの東を経て小高区に至っています。 |  桜井古墳公園内の野馬土手
 土手の規模 |
 参 考 相馬野馬追は、近世には野馬土手に囲まれた牧に放たれた野馬を捕え、小高の妙見社に奉納する神事でした。野馬土手は、相馬地方における近世の牧跡として、また、相馬野馬追に関わる遺構として重要です。 |
「たかひらのいたいしとうばぐん」
種別 市指定 考古資料
指定年月日 平成14年11月5日
所在地 原町区上高平字沢田外
所有者 白山神社外 |  堂後の板石塔婆 | 上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。 |  |
 参 考 中世相馬氏が所領した宇田(うだ)・行方(なめかた)郡内では13基の板石塔婆が確認されていますが、群を成しているのは本群のみです。 |
「にわたしだいごんげんのいたいしとうば」
種別 市指定 考古資料
指定年月日 平成14年11月5日
所在地 原町区北長野字山居前
所有者 泉龍寺 | | | 徳治三年(1308)の銘が刻まれており、亡父母、亡師の追善供養や後生安楽を願う逆修などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により造立されたと考えられます。郡内の中世村落や宗教活動を解明するうえで貴重な資料といえます。 |  |
 参 考 中世相馬氏が所領した宇田・行方郡内では13基の板石塔婆が確認されていますが、このうちの1基です |
「そうまおおたじんじゃのいたいしとうば」
種別 市指定 考古資料
指定年月日 平成14年11月5日
所在地 原町区中太田字館腰
所有者 相馬太田神社 | | | 形状、使用種子等から、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、亡父母、亡師の追善供養や後生安楽を願う逆修などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により造立されたと考えられます。 |  |
 参 考 中世相馬氏が所領した宇田・行方郡内では13基の板石塔婆が確認されていますが、このうちの1基で、両郡内の中世村落や宗教活動を解明するうえで貴重な資料といえます。 |
「しゃごうがくだいみょうじん」
種別 市指定 歴史資料
指定年月日 平成14年11月5日
所在地 南相馬市立博物館
所有者 相馬太田神社 | | 近世大名相馬氏が奥州中村城3代城主相馬忠胤(そうまただたね)のとき、寛文九年九月(1669)に自ら揮毫(きごう)し奉納した額です。 『奥相志(おうそうし)』中太田村には、「別所」の「妙見祠」の「華帯扁大明神」寛文九年九月吉日として記載され、本資料と合致しています。 中村城主相馬氏に直接関わる資料が数少ないことから、相馬忠胤の動静や信仰を示す貴重な資料です。 |  |
 参 考 揮 毫―――筆をふるうこと。 |
「ひなわじゅう めいなかむらじゅうかみおきゅうえもんたちばなのまさむね」
種別 市指定 歴史資料
指定年月日 平成17年3月31日
所在地 原町区押釜字前田
所有者 林 英一郎
大きさ 全長98.0cm 銃身長69.9cm | | 本資料は、中村城下の鉄炮鍛冶職人神尾久右衛門公宗(てっぽうかじしょくにんかみおきゅうえもんまさむね)が製作した、奥州中村藩の炮術(ほうじゅつ)「関流炮術」仕様の火縄銃です。 現存する中村藩在来の武器武具類が少ないことから、希少価値が高く、また中村藩が関流炮術を導入し、それに伴い関流の鉄炮が城下の職人によって製作されていたことを証明する資料として、中村藩の武芸史や、城下の武器武具職人の社会史を理解する上でも貴重な資料です。 本資料の形状は、銃身と銃床を留める銅製の胴締(どうじめ)、長大な用心金、左巻のヤスリ目が入った真鍮(しんちゅう)製の引金(ひきがね)、真鍮製の羽子板形の地板、鉄製の火挟(ひばさみ)、柑子のない銃口等、典型的な関流仕様の形状的特徴を持っています。 | |
 ワンポイント 関流炮術…流祖は久留里土屋家に仕えた関八左衛門之信(1596〜1671)。之信から炮術を伝授された中村藩3代藩主相馬忠胤が、実家の土屋家より藩に導入したものです。 |
「くろうるしぬりはとむねごまいどうぐそくつけたりぐそくびつひつおおい」
種別 市指定 美術工芸品
指定年月日 平成17年3月31日
所在地 南相馬市立博物館
所有者 南相馬市 | 本資料は、甲冑総体の造形が稀有で漆や金具の製作・装飾技法に優れ、美術工芸品としての価値が高い。 また、各部にみられる「剣輪違(けんわちがい)紋」(別名「大岡七宝」)と「瑞籬(みずがき)紋」から、奥州中村藩主相馬家と縁のある大岡家所用の甲冑と考えられることから歴史的価値も兼ね備えた貴重な資料です。 本資料は兜・胴・袖・小具足(面頬(めんほお)・籠手(かごて)・佩楯(はいだて)・臑当(すねあて)・甲懸(こうがけ))から構成され、采配、具足を収納する具足櫃(ぐそくびつ)および革製の櫃覆が付属します。 |  |
参 考 特に兜鉢(かぶとはち)上半分が回転するカラクリが施された「廻り兜」は、他にほとんど類をみないもので珍しいものです。 |
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