旧萱浜村(萱浜地区)は天明・天保の飢饉(18世紀後半〜19世紀中頃)により村の戸数は盛時の宝永6年(1709)の117戸から、天明6年(1786)には38戸に激減しました。相馬中村藩では、こうした飢饉による農村荒廃と人口減少から村を復興させる「村おこし政策」として、「御仕法(報徳仕法)」の導入を図り成果を収めました。 御仕法に欠かせない最大事業は大規模水利事業でした。藩領内にあるため池や用水路の多くはこの時期に修理あるいは新たに築造されています。新軒の多い北萱浜集落の水源確保のために築かれた萱浜用水路もこの時期に築造されました。 この用水路は二宮尊徳の門人、荒専八至重設計指導のもと関係者の努力によって慶応4年(1868)に完成しました。 |  スポーツセンター入口の用水路
 桜井古墳公園脇の用水路 |