鈴木安蔵1904(明治37)-1983(昭和58)

 1904(明治37)年3月3日、父良雄、母ルイとのあいだに、小高町(現南相馬市小高区)に生まれる。
 1917年4月、相馬中学校に進学し、弁論部で活躍し、県下中等学校連合第1回雄弁大会で優勝、仙台二高主催第1回東北中学連合演説会でも優勝した。また、上級生による下級生への暴力を校内から追放するために「同盟休校」の指導者となり、校内からの暴力を消した。
 1921年4月、仙台の第二高等学校へ進学し、栗原佑氏と出会い、社会問題に強い関心を持つこととなり、1924年4月、京都帝国大学文学部に入学した。「京都帝国大学社会科学研究会(京大社研)」の活動に打ち込む。また、マルクス主義に触れ、その研究会や講演会、研究発表会などの活動を行った。経済学部に転部し、マルクス主義理論の研究や無産者教育の実践に打ち込んでいるとき、京大社研の活動が治安維持法第2条に違反したとして逮捕された(1926年1月18日)。最初の治安維持法適用事件としての「日本学生社会科学連合会事件」である。禁固2年の有罪判決を受けた。
 大学を自主退学し、憲法学・政治学の研究を始めるが、『第二無産者新聞』に関する活動が治安維持法に違反するとして、再び逮捕された(1929年10月21日)。
 囚われの身となったが、獄中で妻俊子の差し入れを通じて憲法学者の著書を読み、憲法学に対する研究プランをまとめた。その一方で、短歌を詠み、様々な感情を短歌に込めた。
 出獄後、本格的に憲法学の研究に取り組み、1933(昭和8)年に『憲法の歴史的研究』を刊行するも、当時の出版法違反により即日発売禁止となった。
 日本国憲法が制定されるにあたり、敗戦の年の1945(昭和20)年11月5日、「憲法研究会」が発足し、幹事役を担い、『憲法草案要綱』を起草する。これを、GHQが英訳し、日本国憲法草案を起草する際に参考とした。
その後は、日本政治学会理事を務め、静岡大学、愛知大学、立正大学で教授を歴任するなどして、1983(昭和58)年8月7日、79歳で生涯を終えた。