馬事文化のまち みなみそうま

南相馬という名称は、もとをたどれば、江戸時代まで、地域を治めた中村藩主・相馬家が由来しています。
馬の文字が入っていますが、南相馬という種類の馬がいる訳ではありません。
しかし、南相馬市民にとって馬は、身近な存在です。
市内では、至る所で馬を見掛けることはもちろん、馬そのものだけでなく、馬を感じる場所や光景もあります。
南相馬のキャッチフレーズとして知られている「野馬追(のまおい)の里」。野馬追にとって馬は、騎馬武者たちが乗るなど、欠かせない文化です。
南相馬と馬との関係性を物語る、独特の馬事文化を紹介します。

歴史に見る馬

馬は、人が長い歴史のなかで共生してきた動物の代表格です。
「馬力」という言葉があるように、強い力を持っており、古くから軍事、農耕、運搬などの場面で、有用な力を生み出す経済動物として飼育され、世界の文明発展に大きく貢献しました。

また、馬は、「犬馬の労」という言葉もあるように、犬と並んで人に尽くしてくれる動物でもありました。
馬は、人に忠実なため、大切に扱われ、病気やけがの際には、手厚い治療が行われました。
獣医療の歴史は馬治療の歴史とも言われ、地域を治めた大名・相馬家でも、関ケ原合戦のころには、馬を治療する馬医がいたという記録があります。

加えて、馬が病気やけがをしないよう、神仏に祈る風習も生まれました。
南相馬市では、江戸時代から安養寺観音堂(鹿島区小池)が馬の守護仏として信仰を集めました。
馬が亡くなったときは、生前の労に感謝し霊を慰める供養塔として馬頭観音の石碑を建てた例も見られます。

左奥にお堂、右手前に馬の石像と馬頭観音の石碑が見える画像

馬体安全の信仰を集めた安養寺観音堂(鹿島区小池)

境内には馬の石像や馬頭観音の石碑があります。

草むらの中に古びた馬頭観世音の石碑が左右に2つ並んだ画像

道端の馬頭観世音碑(原町区牛来)

馬の供養塔として建てられたものが多いです。

馬を飼う文化の継承

かつて、日本の家々では、さまざまな作業に従事する馬が飼育されていました。
しかし、昭和30~40年代、農業の機械化が進むと、家で飼育される馬の数は著しく減りました。
南相馬市鹿島区では、昭和31年に506頭だった馬の飼育数が、昭和39年には123頭になっており、10年経たずに4分の1近くまで減ったデータが残っています。

馬は、現代化の流れの中で、競馬場や乗馬クラブなどを除き、日本の風景からほとんど姿を消しました。
しかし、南相馬では、野馬追に欠かせない文化として馬が飼育され続け、馬がいる日常が今でも残っているのです。

野馬追には毎年、400~500騎の騎馬武者が出馬し、その半分以上はレンタルした馬を使っています。
一方、野馬追が行われる相馬地方では、少なからず野馬追のためだけに馬を飼育する方がいて、一説では200頭弱が飼われていると言われています。
一つの行事のために、これほどの数の馬が飼育されている地域は、全国的に見ても珍しいのではないでしょうか。

木造の馬屋の入り口に馬が立っている画像

馬房でたたずむ馬

野馬追の続く地域だからこそ、自宅などで飼われる馬が多くいます。

南相馬の「馬あるある」

道ですれ違うのは当たり前

野馬追本番のとき、甲冑(かっちゅう)姿の騎馬武者たちは街なかの一般道を練り歩きますが、南相馬では、それ以外の時期でも、馬が道路を歩く風景を当たり前のように見られます。
特に、野馬追が近付いてきたころの早朝と夕方は、野馬追に出馬する人たちが乗馬の練習をするため、雲雀ヶ原祭場地の周りや町外れの一般道で馬に乗った人を見掛るようになります。
乗馬の練習は、雲雀ヶ原のほか、鹿島区の烏崎海岸でも行われています。
乗馬の練習風景は、地元の人たちが「野馬追が近付いてきたな」と実感する光景の一つで、相馬地方の風物詩になっています。
ちなみに、馬は道路交通法上、軽車両。自転車と同じ扱いなので、法律を守れば一般道を歩くのは全く問題ありません。

狭い道路を4頭の馬と2台の車が行き違う画像

一般道を歩く馬とすれ違う自動車

野馬追開催が近付いたころによく見られる風景です。狭い道で車と馬がすれ違う時は、車の方がゆっくりと運転します。

のぼり旗の並んだ放牧場

相馬地方で野馬追のために飼育されている馬たち。その馬小屋や放牧場には、「のぼり旗」が立てられていることが多いのですが、なぜ旗を立てているのだと思いますか。
答えは、馬が野馬追当日、武者が背負う旗の音や動きにおびえないように、普段から慣らしておくためです。馬は草食動物。臆病で繊細な生きもので、物音などにとても敏感です。
旗を立てた飼育環境は、競馬場や乗馬クラブでは見られない、相馬地方ならではの馬の調教方法です。

のぼり旗3本が付けられた柵の中を馬が駆ける画像

のぼり旗の並ぶ馬場を走る馬

野馬追の武者たちが背負う旗に慣れさせるための工夫です。

街なかで見掛ける馬

馬頭観世音の銘板の上に、れんが色の馬の像が見える画像

雲雀ヶ原祭場地入り口の馬頭観世音

野馬追に出馬する馬の平安を祈り昭和48年、建立。馬頭観世音の文字は第64・65代内閣総理大臣・田中角栄の揮毫(きごう)です。

馬を見掛ける機会が多いとは言え、街なかを歩けば馬に必ず出会うほどではありません。
しかし、南相馬の街なかでは、馬をモチーフにしたものにも数多く出会えます。
見付けやすい馬のモチーフはモニュメントで、JR原ノ町駅前にある騎馬武者像「出陣」、雲雀ヶ原祭場地入り口にある「馬頭観世音」などがあります。
他にも、街路灯や公衆トイレの意匠に馬が取り入れられていたり、駐車場の名前が「馬つなぎ場」だったり、多岐にわたっています。
ゆるキャラグランプリに参加したことがある南相馬市ふるさと回帰支援センターのマスコットキャラクター「のまたん」も馬がモチーフで、土産品にも馬をモチーフにしたものがあります。
馬をモチーフにしたものが多いのも、人と馬とが共存する地域ならではです。
街なかに散りばめられた馬のモチーフは、南相馬を訪れた方に「野馬追の里」という土地柄を強く印象付ける存在となっています。

馬は家族

飼い主に水で顔を洗ってもらっている馬の画像

馬の世話

馬に手を掛けて世話をする。馬と触れ合い、コミュニケーションを深め、共に家族として野馬追という晴れの舞台に臨みます。

馬は労働生産性を上げる経済動物として飼育されてきた歴史があります。
一方で馬は、経済動物として利用されるだけではなく、人と長い年月を共に暮らし、時に癒やしを与えてくれる、人との絆が深い動物でもあります。

現在、相馬地方の個人の方が飼育している馬の多くは、実用に供する経済動物より、愛玩動物やペットに近い存在になっていると考えられます。
ただし、所有物のような意味での愛玩動物ではありません。
馬を飼育して野馬追に出ている方がよく「家族と一緒に野馬追に出る」と話すように、家族・伴侶として共に暮らすコンパニオンアニマルという感覚だと考えられています。
何かを生産したり労働したりするのでもない、野馬追に出るためにともに暮らす、大切なパートナーでもあるのです。

「馬は人の心が分かる」という人がいます。
普段からスキンシップを欠かさない飼い主が、野馬追に出馬するときの高揚感や雄々しい気持ちは、馬にも伝わり、野馬追が晴れの舞台だということも感じているのではないでしょうか。

馬事文化のまち みなみそうま

紹介した光景や風習、そして甲冑を着た武者たちが、現代の街なかを練り歩く野馬追の三日間は、特異で非日常的な世界に見えるかもしれません。
しかし、住民からすれば見慣れた光景で、日常となっています。
姿かたちを変えながらも、数百年に渡って継続してきた野馬追が社会に深く浸透し、地域ならではの「馬の文化」がかたちづくられているのです。

自宅の前で馬の顔をなでる男性と馬の画像

馬の文化

過去も、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の際も、今も、毎日、馬に餌をやり、体の手入れをしてやり、住まいを整えてやる。
南相馬にはそんな暮らしがあります。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 文化財課 博物館

〒975-0017
福島県南相馬市原町区牛来字出口194

電話:0244-23-6421
ファクス:0244-24-6933
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更新日:2018年12月25日