その52 雛人形の身の上話(平成31年3月1日)

更新日:2019年03月01日

帯イラスト画像
享保雛と左義長羽子板の画像

雛祭り

3月3日を「雛祭り」「女の節供」「桃の節供」などといって、雛人形を飾っておまつりします。雛祭りは5月節供に対する女子の祭りとされ、初節供や新嫁に、雛人形を贈る風習があります。(本来は「節供」ですが、現在は「節句」と書くことが多くなりました。)

雛人形は本来、災いや身の穢れを祓うための形代(かたしろ)として海や川に流された人形(ひとがた)がおこりで、後に愛玩・鑑賞用の人形(にんぎょう)になっていきました。

雛人形の身の上話

現在、南相馬市博物館には江戸時代から明治時代に京都で作られた享保雛(きょうほうびな)が3月末まで飾られています。この人形は山形県鶴岡市の一日市町(ひといちまち)で江戸時代から続く斉安(さいやす)呉服店で代々飾られていたものです。江戸時代の鶴岡は庄内藩の城下町として栄え、旧家では競うように豪華な雛人形が飾られた土地柄でした。かつて、この家には雛人形が7組あって、雛祭りには床の間いっぱいにさまざまな人形が飾られていたそうです。(娘たちが嫁いだ際に人形を分けたため、現在は残っていません。)

この呉服店に生まれた齋藤さんは昭和23年に鶴岡の通産省輸出絹織物検査所の検査員を皮切りに、横浜繊維製品検査所小高出張所や川俣の絹織物検査所に勤務しました。昭和28年頃、齋藤さんは娘のために鶴岡の実家から享保雛や左義長羽子板などを譲り受け、雛祭りには小高の自宅に飾っていましたが、現在は博物館でお預かりしています。

江戸時代の物流は北前船(きたまえぶね)で蝦夷地(北海道)・東北・北陸の物資を日本海から下関経由で大坂(大阪)へ運び、帰り船で西国の塩・酒などの物資が日本海沿岸の港に荷下ろしされました。京都などの美術工芸品はこうして新潟・山形・秋田などの裕福な人々の手に渡っています。展示中の豪華な絹織物をまとった人形も北前船で鶴岡の呉服店に渡ったのでしょう。やがて人形は絹織物で栄えた小高へと渡り、代々受け継がれてきたのです。巡り巡った雛人形の身の上をたどると、興味深いものがあります。

享保雛(きょうほうびな)

享保雛は江戸時代中期の享保年間(1716~1736)頃に流行した大型の座り雛です。当時はまだ段飾りになる前で、人形や道具は平らな台に毛氈(もうせん)を敷いて飾り、その前にお供えを並べていたため、大きなものが製作されたといわれます。面長で切れ長の目をした神秘的な表情、金襴(きんらん)や錦(にしき)といった華やかな衣装をまとっています。女雛は袴(はかま)に綿を詰めてたっぷりと膨らませているのが特徴です。

世の中が贅沢(ぜいたく)になるにしたがって大きさも競われ、享保6年(1721)には24センチメートル以上の雛の禁止令が出たほどでした。財力を蓄えて台頭してきた町人社会に特に人気が高く、この様式は明治の末頃まで作られました。

左義長羽子板(さぎちょうはごいた)

羽子板で羽子を突く遊びは、古くは正月の女子の遊戯で、厄除け祈願の意味があったようです。羽根突きは江戸時代に盛んになり、やがて美しい色彩を施した京羽子板や内裏羽子板、正月行事の左義長の様子を描いた左義長羽子板があらわれ、文化文政期(19世紀前半)になると、押し絵羽子板が現れて飾り羽子板として人気を集めました。

左義長とは正月、特に小正月に行われる年神を送る火祭りのことで、平安時代には「三毬杖」「三鞠打」と記されています。

(二本松)

帯イラスト画像
この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会 文化財課 博物館

〒975-0051
福島県南相馬市原町区牛来字出口194

電話:0244-23-6421
ファクス:0244-24-6933
お問い合わせメールフォーム

このページに関するアンケート

より良いウェブサイトにするために、このページのご感想をお聞かせください。

このページの内容は分かりやすかったですか



分かりにくかった理由は何ですか(複数回答可)



このページは探しやすかったですか



探しにくかった理由は何ですか(複数回答可)