その68 苦難の時代の野馬追(2)戦中・戦後(令和2年7月1日)

更新日:2020年07月01日

馬、甲冑姿の男の子、星、天の川などが並ぶ帯状の画像
戦中・戦後の野馬追について書かれた報告書。表紙には筆で「昭和18年度起 講武会関係綴 幹事」と書かれている。

近年発見された戦中・戦後の野馬追が記された報告書(個人蔵)

世の中が苦難におちいり野馬追の開催が危ぶまれたことは、これまでの長い歴史のなかで何度かありました。そんな中でも我々の先祖たちは、それぞれの時代で工夫をしながら野馬追を受け継いできました。

今回は、前回の天保の飢饉・明治維新に引き続き、日本が苦境におちいった太平洋戦争末期と、戦前から社会が大きく変化した戦後直後の野馬追のようすについて、近年新たに発見された当時の報告書(個人蔵)をもとに紹介します。

太平洋戦争末期①―日本の戦況悪化と野馬追―

報告書の文章中の『最後ノ「戦勝祈願』ノ神旗」に赤い波線が引いてある。

「戦勝祈願」の神旗が打ち上げられた(赤線部)という昭和19年の報告書

戦中はあらゆるものが戦意高揚に利用される時代で、勇壮な野馬追も絶好の行事でした。

昭和16年(1941)太平洋戦争が開戦しました。この頃の野馬追は、相馬三社(太田神社・小高神社・中村神社)が主催する合同祭礼で、日程は7月11日~13日の3日間、行事内容は現在とほぼ同じで、同18年(1943)までは通常通り開催されていました。

本土空襲が始まった同19年(1944)は、戦局悪化にともなって、公式な三社合同祭礼としては中止、初日の宵乗競馬などは省略したものの、2日目の御行列・神旗争奪戦では280騎の騎馬武者が参加し、3日目の野馬懸も開催されました。

特に戦争末期は、日本の軍国的風潮が強まって、あらゆるものが戦意高揚に利用されましたが、野馬追も例外ではありませんでした。その行事の勇壮さから「尚武の華」(『福島民報』1943年7月12日)「米英撃滅の武者振ひ」(『福島民報』1944年7月13日)などと喧伝され、昭和19年の報告書には、神旗争奪戦で「皇軍の武運長久」の神旗・「戦勝祈願」の神旗が使用されるなど、戦時色が強い野馬追が行われたことが記されています。

太平洋戦争末期②―昭和20年(1945)敗戦の年―

空襲が東北地方にもおよび、いよいよ敗戦濃厚となった大戦末期の昭和20年(1945)は、中村神社・太田神社が中止、3日目の小高神社だけ単独開催することにしました。つまり初日の御繰り出し・宵乗り、2日目の御行列・神旗争奪戦を開催せず、野馬懸のみを開催するという決定でした。しかし、それに待ったをかけたのが、野馬追の騎馬武者たちによる外郭組織「講武会」(今の「騎馬会」の前身)で、2日目の御行列や神旗争奪戦を、神社がやらなくとも講武会が行うと決定・実行したのです。

当時はいつ空襲があってもおかしくない状況で、実際に直前には仙台空襲(7月10日)や釜石艦砲射撃(7月14日)など、近隣で大規模な攻撃があったばかり。そんな状況ですから「敵機ノ来襲ヲ十分考慮」して開催することとしました。

当時の野馬追は7月12日でしたが、諸事情で15日に変更、会場も通常の雲雀ヶ原祭場地から、夜の森公園(原町区三島町)周辺に変更されました。そして迎えた当日、早朝に空襲警報が鳴り響き、野馬追は無理かと思われましたが、警報が解除になったので以下のような野馬追が行われました。

①新田川から夜の森公園まで、騎馬武者110余騎の御行列

②神旗争奪戦は火薬ではなく異例の弓矢で打ち上げ

計15回弓矢での神旗争奪戦が行われ、終了後は激しい雨に打たれつつも、武者たちは意気揚々と家路についたそうです。

この野馬追のわずか約1か月後、8月9日・10日には原町空襲、15日に昭和天皇の玉音放送で日本が降伏したことが国民に伝えられ、戦争が終結しましたが、これほど厳しい情勢の中で野馬追が開催されたとは驚きです。報告書には、行列のとき予想以上に沿道に観衆がいたと記されています。地域の人々にとって野馬追は、盆・正月と並んで“来て当たり前”、地域の暦に組み込まれているものですから、このような非常時でも歓迎されたのかもしれません。また、同年の野馬追が開催できたことについて、報告書には「中止とせず決行できたのは、将来の野馬追の維持・発展のための大いな喜びだ(意訳)」と記されています。途絶えさせなかったという誇りと、野馬追については頑として引かない、相馬人の気骨のようなものが垣間見えます。

昭和20年の野馬追のイメージ図。騎馬武者の方へ小旗を弓矢で打ち上げているイラスト。

昭和20年(1945)の野馬追のイメージ(左)と、同年の報告書(右:赤線部)

戦争末期の昭和20年、夜の森公園で小旗を弓矢で打ち上げる争奪戦が行われました。

戦後直後 新競技誕生「巻乗り競馬」

戦後直後に行われていたバトンリレー方式の巻乗り競馬のイメージ図。バトンを渡そうとする騎馬武者と受け取ろうとする騎馬武者のイラスト。

戦後直後の「巻乗り競馬」のイメージ

戦後の数年間、各地区対抗でバトンリレーする競馬が行われていましたが長続きせず、「甲冑競馬」が新たに生まれたことで、この競技は行われなくなりました。

昭和20年(1945)8月、日本が敗戦、連合国軍の占領体制となり、平和主義の日本へと生まれ変わっていく中で、翌21年(1946)の野馬追は戦前の戦意高揚を連想させるような要素を取り除いて、馬事スポーツ色を前面に打ち出した行事として開催される予定でした。

しかし、この年は諸事情で公式に野馬追が開催できず、代わりに10月13日に行われたのが、その名も「相馬野馬追騎馬会馬術競技会」。昭和20年の野馬追を主催した講武会が「騎馬会」と改称、同会主催の馬術競技会でした。競技会とは言いながら、内容はほとんど野馬追と一緒。進駐軍の兵士たちも含め多くの観衆が見守るなか、おなじみの御行列(神輿は不参加)や神旗争奪戦などが行われました。

そして、戦後の野馬追らしくスポーツ色を打ち出した新競技「巻乗り競馬」が行われました。これは1チーム4人で編成された各地区(宇多郷・北郷・中ノ郷・小高郷・標葉郷)対抗のバトンリレー形式の競馬。なにしろ誰も経験したことがない、ぶっつけ本番の新競技。馬上でバトンを受け渡す難しさに加え、数チームが同時にバトン交換すれば団子状態で大混雑するなど、騎士たちは相当苦労したようです。こんな状況ではじまった巻乗り競馬は、スタートダッシュをうまく決めた小高郷が優勝したそうです。

翌年の昭和22年(1947)野馬追が公式に復活し、7月11日~13日の3日間、御繰り出し・宵乗り、三社の神輿を交えた御行列や神旗争奪戦、野馬懸など、一連の行事が開催されました。前年に引続き巻乗り競馬も行われ、中ノ郷が優勝したそうです。

この巻乗り競馬、いつまで行われたか不明ですが、翌23年(1948)には、新競技として甲冑競馬が誕生したこともあって(「その56 甲冑競馬誕生秘話」)、その後は行われていないようです。確かに、バトンの受け渡しでごちゃごちゃする巻乗り競馬よりも、甲冑競馬のほうがシンプルでウケがよかったのかもしれません。戦後直後の2~3年間しか行われなかったまぼろしの競技ですが、それはそれで見たかったですね。

(ふ)

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