その91 ポスターから見る野馬追 その1(令和4年7月1日)

更新日:2022年07月01日

馬、甲冑姿の男の子、星、七夕飾り、織姫と彦星などが並ぶ帯状の画像
昭和32年(1957)の野馬追ポスター

昭和32年(1957)のポスター

現存する最古級ポスター。当時は写真ではなく絵画が多く、大きさも現在のポスターの半分・B2サイズ(728X515ミリメートル)です。

7月を迎え、街なかで野馬追のポスターを見かけると「いよいよ本番だなぁ・・・」と実感する季節になりました。

ところで、野馬追ポスターはいつから作られたのでしょう。その始まりはよくわかっていませんが、戦前から作られていたことは確かなようです(昭和16年6月26日付『福島民報』等)。

これまでもさまざまなデザインのポスターが作られてきましたが、今のところ確認できる最古のデザインは、終戦直後の昭和22年(1947)のもので、大きさは「新聞大」だったそう。現在のポスターがB1サイズ(1030×728ミリメートル)ですから、約半分の大きさだったんですね。このポスターの実物は残っていませんが、同年7月4日付けの地元紙『福島民友』でデザインを確認できます。

また当時は、地元や中央で活躍した画家が描いた騎馬武者の絵画が多く、昭和40年代あたりから現在のように写真が使用されてきます。令和3年度(2021)からはデザインが一般公募になり、今後ますますデザインは進化していくのでしょう。

さて今回は、そんな野馬追ポスターからネタを少し紹介します。

野馬追が4日間だったころ

昭和40年(1965)の野馬追ポスター

4日間のスケジュールで記された昭和40年(1965)のポスター

野馬追は江戸時代の日程をベースにして、現在も3日間にわたって開催されている行事ですが、この昭和40年(1965)のポスターを見てください。なんと、日程が7月16~19日の4日間ではありませんか。

野馬追はこれまでに何度か日程が変更されましたが、4日間開催されていたのは昭和36年~40年(1961~65)の5年間だけでした。(昭和40年はポスター記載だけ4日間のスケジュールで、実際は17~19日の3日間開催だったと読みとれる資料もあり、現在事実を調査中です)。

どんな行事が行われていたのかというと、現在の1日目に行われる「お()()し・宵乗(よいの)り」を2つに分けた、とイメージすればわかりやすいかと思います。つまり、1日目は、最北の宇多郷(相馬市)・最南の標葉郷(浪江町・双葉町・大熊町)が祭場の原町へ向かうための1日あたりの移動距離を半分くらいにして、2日目に残り半分の距離を移動し、原町に到着したあと宵乗競馬を開催したわけです。

1日目の行事を2つに分けて日程に余裕ができたことで、各地では、今まで行われていなかった野馬追関連イベントが催されるようになりました。原町区の旭公園では、パラシュート花火を使った神旗争奪戦の模擬競技や、何組かのペアが裸馬に和式馬装するタイムを競う「馬装競争」などが行われていたそうです。しかし、この変則的な日程は定着せず、昭和41年(1966)には7月23~25日に変更され、さらに平成23年(2011)に7月最終土・日・月曜日に変更されて現在に至っています。

ちなみに、この4日間の行事、最初は5日間での開催も検討されていたそうです。5日目の最終日は「水馬祭」と名付けて、原町区萱浜地区の洋上に扇の的を掲げた小船を浮かべ、波打際で騎馬武者がその的を弓矢で射るという、平家物語で那須与一が扇の的を射抜いたエピソードを模したイベントだったらしいです(「昭和35年10月 第6回原町市議会会議録」)。まったく野馬追と関係ない行事が盛り込まれそうだったんですね・・・。

メンコ(覆面)をつけた馬の謎

昭和のポスターを細かく観察してみると、武家時代の和式馬装の馬のなかに、なぜか競馬用のカラフルなメンコ(覆面)をかぶっている姿がチラホラ見えます。今では絶対にあり得ない馬装ですが・・・これはいったい何なのでしょう。

これには野馬追の“馬事情”が大きく関わっています。明治時代以降、野馬追に出場する馬は、おもに農林業などで飼育されていた地元の馬でした。しかし、昭和30年代から急速に農業の機械化が進んだことで農耕馬の数が減少、それに代わって競走馬が使用されるようになってきました。ちょうどその時期に、競馬で使用されるメンコをかぶった馬たちがあらわれるのです。

昭和53年(1978)和式馬装にメンコ(覆面)をつけた馬のポスター

和式馬装にメンコ(覆面)をつけた馬

(昭和53年[1978]ポスター)

メンコ(覆面)をつけた馬に乗って野馬追に出ている子どもの騎馬武者

昭和39年(1964)撮影

これはこれで可愛らしくも見えますが・・・武家の伝統とは違いますね。

現在は、武家時代の装束をなるべく忠実に再現するよう申し合わせているので、このようなトンデモ馬装は見られなくなりましたが、当時は数少ないながらも割と普通に見られました。農耕馬から競走馬への過渡期にあらわれた、何とも奇妙で面白い組み合わせは、“農業の機械化”という時代性が生み出した、野馬追の歴史の一部ともいえるでしょう。

そういえば筆者が小さい頃、似たような組み合わせで「サングラス武者」なんてのもいたような・・・そんなうっすらとした記憶があります。

ポスターは後世に残す「資料」です

令和4年(2022)の野馬追ポスター

今年・令和4年(2022)のポスター

ポスターは、その年の野馬追のイメージをあらわす大切な「顔」であり、それぞれの時代の野馬追を映す鏡のようなものです。

今年・令和4年(2022)は、新型コロナウイルスの影響で大幅に縮小せざるを得なかった2年間の苦難を乗り越え、3年ぶりの通常開催が予定されています。また、東日本大震災の避難指示等で中止を余儀なくされていた大熊町での騎馬行列が12年ぶりに復活、そして、これまで長らく総大将をつとめてきた旧藩主相馬家34代の相馬(みち)(たね)さんが引退し、長男の(とし)(たね)さんが初陣する世代交代の年。いろいろな出来事・思いが詰まったなかでの開催となります。今年のポスターはそんな年の顔・鏡でもあるわけです。数年後・数十年後に今年のポスターを見た時、あぁ、あんなことがあった年だな・・・と思い出がよみがえるかもしれません。

博物館では、毎年発行されるポスターを、単なる広報出版物ではなく、こうした歴史も刻まれる「資料」として、これからも収蔵していきたいと思います。

(文:二上文彦)

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