南相馬唯一の漁港で、家族と一緒に海に出る あたたかな人と空気に囲まれて、漁師として働く道
南相馬唯一の漁港で、家族と一緒に海に出る あたたかな人と空気に囲まれて、漁師として働く道
平 加奈子 さん(41)
たいら・かなこ
2008年〜 南相馬市鹿島区在住
広島県福山市生まれ
(18歳):犬のブリーダーとして大阪府に就職 → (20歳):地元に戻り、動物病院で看護師として働く→(23歳):香川県の旅館に転職→(28歳)結婚し、南相馬へ
「平安丸」漁師
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移住の決め手は「好きな人が南相馬で暮らしていたから」と、まっすぐ答える平加奈子さんは、3代続く漁師の家に嫁ぐためにやってきました。
地元・広島から移住して14年。東日本大震災後は4年ほど離れていましたが、長男が小学校に上がるタイミングで南相馬市に戻ってきました。夫の正蔵さんと3人のお子さん、正蔵さんの両親と一緒に、鹿島区で暮らしています。現在は自身も漁師として働く加奈子さんに、移住するまでの道のりやお仕事について、お話を伺いました。
好きな人との暮らしを心の支えに。新生活への不安は、準備で和らげて
Q1. 移住のきっかけを教えてください。
A.
香川の旅館で仲居さんとして働いていた時に、後に夫となる正蔵さんと出会いました。漁業協同組合の旅行で来ていたのですが、偶然にも、私が接客の担当をしたんです。チェックインからチェックアウトまでの間だけだったんですが、お互いに気になる感じで......連絡先を交換して、間もなく遠距離恋愛を始めました。毎日電話をしたり、2カ月に1度くらいのペースでデートをしたりして、約1年後に結婚。「好きな人の地元が南相馬だった」、それだけのシンプルな理由ですが、当時の私が移住を決めるのには、十分な理由でした。
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Q2.見ず知らずの土地へ来るのに、不安はありませんでしたか?
A.
いざ移住をするとなると、一緒に暮らしてきた家族や昔からの友達と離れることに不安を感じました。私は4人きょうだいなんですけど、東北は旅行でも行かないような、遠い場所だと思っていたのに、まさか定住することになるとは思ってもみませんでした。結婚のあいさつに来た時に、アパートも周りに全然なくて...夫の家族と同居になることが生活の前提なのもちょっと心配でしたね。
それでも、前向きな気持ちで新生活への準備を進めました。同居への不安を少しでも軽減するべく、義両親が高齢になったときのために介護ヘルパーの資格を取りに行ったり。できることをやるしかないという気持ちでした。
いざ移住してみると、暑すぎず寒すぎず、雪も降らない気候には、住みやすさを感じました。夫は優しく、常に私の味方をしてくれていたので、家の中で窮屈な思いをすることもなかったです。夫の妹は移住直後から仲良くしてくれて、とても感謝しています。家も近所で何かあったら「聞いて!」と話に行ったり、映画を見に行ったり、一緒に楽しんでいます。
思いがけず訪れた、漁師への転身 戸惑いながらも、船に乗り続けて4年が経過
Q3.南相馬に来てからすぐ、漁師の仕事を始められたんですか?
A.
来たばかりの頃から震災までは、船には乗っていなかったんです。私は漁港で夫と義父が帰ってくるのを待っていて、船を陸につけるためのロープを取ってあげたり、魚を下ろしたり、お手伝いをする程度でした。
船に乗るようになったのは4年くらい前からです。それまで夫と一緒に漁に出ていた義父がけがをしたのがきっかけでした。夫ひとりで漁をすることはできない、でも誰かは船に乗らなくてはと、私が行くことになりました。
想像していたより早く出番がきましたが、義父が高齢になった時に備えて、船を運転するための船舶免許1級を取得していたんです。そのため、すぐに船に乗る選択をすることができました。
Q4.船に乗る免許があったとはいえ、漁師として働くのは初めてのことだったんですよね。仕事には慣れましたか?
A.
最初は不安だらけでしたよ。まず、船酔いが辛かったです。みんなが仕事をしてるのに、自分はうなだれてしまう状況になって、来ない方が良かったなと自己嫌悪になってしまうことも。男性に比べると力はどうしても弱いし、一歩間違えば海に転落する危険もある。ネガティブな考えで、頭がいっぱいになることもありました。
一番気がかりだったのは、義父がしていた動きの代わりになれるのだろうかということ。2人で一緒に漁をするうえで大事なのはコンビネーション。船の上での位置取りや網を投げたあとの動き方などを紙に書き出してもらい、何度もイメージトレーニングをしました。
なんとか初日をクリアして、続けているうちに仕事には慣れてきたかな。今はまた、義父も一緒に船に乗るようになり、夫、私それぞれの役割を全うしながら3人で漁をするようになりました。私は義父が上手く力をいれられるようにサポートをしたり、海から揚がった魚の氷締めを担当しています。
この仕事のやりがいは、漁獲量と収入が直結しているところ。1匹も取れなかったら、収入もゼロになってしまうからこそ、頑張ろうと思えます。夫は、収入への影響も、海の危険性も、私以上にわかっているから、船に乗ると人が変わったように声がでかくなったりしますよ。夫婦というよりは先輩と後輩のような関係です。たくさん魚が取れた日は一緒に盛り上がるし、全然取れなかった日には沈黙が流れることもあります(笑)
真野川漁港をもっとたくさんの人に知ってほしい
Q5. 真野川漁港は、南相馬唯一の漁港ですよね。どんな魅力がありますか?
A.
漁に出ている船数は30弱くらいでコンパクトな漁港なんですが、年間通していろんな種類の魚が取れるのは真野川漁港ならではだと思います。例えば、うちでスズキ漁をしている時に、他の船はカレイを取っていたり、時期が変わればホッキを取ったり。ただ唯一、シラスが旬のときは、ほとんどの船がシラス漁をしています。震災があって漁ができない時期もあったけど、「こんなにさまざまな魚が取れる漁港は他にない!」という夫の想いも支えたくて、南相馬に戻ることを決めていました。
働いている人たちは、みんなとてもあたたかく、仲もいいです。漁師の仕事は、お互い助け合いながらやることも多いから、真野川漁港のおおらかな雰囲気の中で仕事ができるのはありがたいです。海の上には船しかないから、困ったときに頼るのも漁師の仲間たち。絡まった網をほどいて結び直すなど、自然と手伝いにいって一緒にやります。20代、30代の若い漁師も多く、一致団結して、活気も感じます。高齢化が進んでいるなかでも、祖父と孫という組み合わせで乗っている船もありますね。
漁師の妻仲間のお母さんたちには、移住してきてすぐの頃から本当によくしてもらいました。一緒に船着き場で夫たちが帰ってくるのを待っていたり、漁師の妻ならではの話で盛り上がったり。移住して間もないころ、知り合いが全くいない中でも、辛くならなかったのは彼女たちのおかげです。
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Q6. これから南相馬でやってみたいことを教えてください。
A.
真野川漁港を盛り上げていくことに、携わっていけたらなと思っています。国道から一本入らないと辿り着けないからなのか、この辺で仕事をしている人でも、漁港があることを知らなかったりするのが、ちょっと寂しいなって。
年に1度、漁港で秋祭りがあるんですけど、屋台や太鼓のお披露目などがあって、結構人が来るんですよ。そういうイベントを増やしたり、飲食店ができたりすれば、もうちょっと真野川漁港に来てくれる人が増えるんじゃないかなって。料理が好きな義母と義妹も飲食店には興味があるので、いつか店を一緒に開けたら嬉しいです。その時には、私はウエイトレスとして、漁港で取れた魚料理を運びたいです。
南相馬のわたしのお気に入り
鹿島区 烏崎海岸
鹿島区の焼肉店「丸長」によく行きます。家族の誕生日や子どもの部活の大会が終わった後など、義妹家族も誘って、みんなでワイワイするのが楽しいですね。家族と喧嘩をしてしまった時など、一人になりたいときは「烏崎海岸」へ散歩に行きます。市内の他の海岸に比べると人が少なくて落ち着くんです。地元の瀬戸内海はほとんど波がなかったので、波の音はいいなあって思うようになったのも南相馬に来てからですね。
「義妹家族と一緒に、ここでバーベキューをよくやるんです」と、椅子とテーブル、飲み物まで用意して、私たちを迎えてくれた平さん。終始、和気あいあいとした楽しい雰囲気で、お話を聞かせてもらいました。取材後は真野川漁港に行き、平さん一家の船「平安丸」を見せていただくことに。そこには夫・正蔵さんの姿もありました。朗らかに笑う2人を見て、漁をしているときに限らず、お互いを思いやって暮らしているんだろうなと感じました。
テキスト:蒔田志保/写真:鈴木宇宙
更新日:2023年03月07日