同慶寺にねむる相馬家当主エピソード集

更新日:2023年08月15日

 

 相馬家が代々領地として治めてきた相双地域(福島県浜通り地方北部)の各地には、相馬家一族の墓地が点在しています。それらのうち、江戸時代に相馬家の菩提寺となった同慶寺には16代相馬(よし)(たね)から27代(ます)(たね)までの相馬家当主とその一族あわせて27人が葬られています。
 同慶寺に葬られている16代(よし)(たね)から27代(ます)(たね)までの10人の相馬家当主が生きた時代は、戦国時代後半から江戸時代後半になります。領主としてこの地を治め続けた歴代相馬家当主がどのような人物だったのか、さまざまなエピソードを交えて紹介します。
 なお、同慶寺の他に、南相馬市には岩屋寺(がんおくじ)の御壇(11代(よし)(たね))と北新田(きたにいだ)の御壇(12代高胤(たかたね)・13代(もり)(たね)・14代(あき)(たね)ら計6人)、相馬市には円応寺(えんのうじ)(15代(もり)(たね))、浪江町には大聖寺(21代(まさ)(たね)・23代(たか)(たね)ら計10人)など相馬家一族の墓地があります。

16代 相馬義胤

生没年:天文17年(1548)~寛永12年(1635)11月16日

戦国時代を生き抜いた戦国武将

16代 相馬義胤

 「外(   がい)(てん)(こう)(よし)(たね)」として親しまれている相馬義胤は、伊達や上杉、最上、佐竹といった周辺の有力大名と渡り合った戦国時代後半から江戸時代初めの相馬家の当主です。
 天正6年(1578)ころに父相馬(もり)(たね)から家督を譲られたとされていますが、それ以前から政治的・軍事的な活動をしていたようで、父盛胤とともに伊具郡や亘理郡など伊達との領境で戦闘を繰り返していました。
 天正12年(1584)には三春の田村(きよ)(あき)の仲介もあり伊達との和睦が成立し、抗争はひとまず終結しました。このころ義胤と政宗は初対面し、互いの刀を交換したことが伝わるほど良好な関係だったと伝えられています。しかし、和睦を仲介した田村清顕が死去したことをきっかけに、田村氏への影響を強めようと相馬と伊達は再び対立することになり、軍事的緊張は天正18年(1590)の豊臣秀吉による(おう)()()(おき)までつづきます。

伊達政宗との関係

16代 相馬義胤の五輪塔

 天正18年、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻めるため、そして自身への服属の意思を図るため、全国の大名に対して小田原への参陣を求めました。
 政宗が小田原に参陣して秀吉に謁見したのに対して、小高城にいた義胤は小田原には参陣せず、政宗の留守を狙って軍事行動を起こしました。しかし、相馬と伊達の領境の警護を強固にしていた伊達方に敗戦し、義胤の弟である(たか)(たね)をはじめ多くの家臣が討ち取られました。
 この義胤の軍事行動に対して、政宗は秀吉から相馬攻めの許可をとりつけ、家臣を総動員して相馬攻めを計画しました。しかし、自領内の抵抗に対して鎮静化を図るため、相馬攻めを延長せざるを得ませんでした。その間に、義胤は秀吉政権への服属をアピールした結果として、政宗による相馬攻めが実現することはありませんでした。
 その他にも、関ケ原の合戦の直前、大坂から相馬領を通り帰国しようとした政宗に対して、義胤は通行を許可するなど、領地を接する義胤と政宗との間には、その時々の状況に応じて抗争や和睦を繰り返した戦国時代を象徴するさまざまなエピソードが伝わっています。

義胤の遺言

  慶長17年(1612)4月には、義胤は(しね)()(ぐん)(いずみ)()に隠居していましたが、寛永2年(1625)に嫡子(とし)(たね)が45歳で死去し、利胤の跡を継ぐはずの虎之助はわずか6歳だったことから、義胤は虎之助を後見するために隠居していた泉田から中村城に移りました。その後、嫡孫義胤が初めて領国入りした寛永12年(1635)8月からおよそ3か月後の11月に義胤は体調を崩し、そのまま中村城で死去しました。(どう)(けい)()に埋葬された義胤の遺体は、遺言により甲冑を帯び北方に向かって葬られたと伝えられています。

17代 相馬利胤

生没年:天正9年(1581)~寛永2年(1625)9月10日

領地没収!徳川との交渉にのぞむ

 天正9年(1581)に相馬(よし)(たね)の嫡子として生まれた虎王は、慶長元年(1596)に元服して(みつ)(たね)と名乗ります。この「三」字は石田三成からのもらい受けたといわれています。そして、伏見城で豊臣秀吉に謁見した時に叙爵され、大膳亮(だいぜんのすけ)を賜りました。

領地没収の知らせ

17代 相馬利胤

 慶長7年(1602)5月12日、牛越城で父義胤とともに野馬追を見学していた時に、佐竹(よし)(のぶ)から飛簡が届きました。そこには、関ケ原の合戦において石田三成に与したとみなされた義宣は常州の佐竹領80万石が没収され、出羽秋田()(ざわ)20万石へ国替えとなったとともに、相馬義胤・岩城(さだ)(たか)らの領地も没収となったことが記されていました。そして、義宣の新たな知行地の内、1万石を義胤に分与して秋田へ移るべき仰せがあったというのです。関ケ原の合戦で軍勢を動かさなかった義胤は石田三成に味方したと徳川から疑われ、領地を没収されたのです。

徳川との交渉

17代 相馬利胤の五輪塔

 義胤は秋田ヘ移ることはやむなしと考えましたが、三胤は佐竹の旗下に入るよりは、江戸へ行き交渉するべきことを主張しました。義胤は三胤の主張を受け入れ、自身は会津の蒲生(がもう)(ひで)(ゆき)の一族三春城代蒲生(うじ)(さと)を頼り三春大倉へ退去し、三胤は江戸に向かい徳川と交渉することになりました。この時に、石田三成からもらい受けた三胤の「三」字は、徳川との交渉に不利と考えたのか「蜜」字に改めました。
 徳川との交渉がどのようになされたのか詳細な経緯は伝わっていませんが、蜜胤自身の持っている人脈を活用したと考えられます。徳川の重臣本多正信を介して、蜜胤は徳川と疎遠であったことを詫びるとともに、石田三成とは豊臣政権への取次を頼んだ間柄であったが、三成に与したことはなかったこと、今後は徳川の譜代の家臣同様に奉公することを約束した訴状を提出しました。その結果、慶長7年10月、宇多郡・行方郡・標葉郡の三郡はもとのとおりに相馬家領として安堵されました。
 この旧領安堵に対して、伊達政宗は義胤が今後の働きへの期待のみで安堵されたことを家臣に伝えています。一度没収された領地が再び安堵されることは非常にまれなことだったということがいえます。

「不吉な城」牛越城

 この旧領安堵後、密胤は秀忠年寄の土井(とし)(かつ)から土屋(ただ)(なお)の異父妹との婚姻を命じられ、徳川秀忠に仕えることになりました。これを機に、密胤は土井利勝の名前の一字をもらい受け「利胤」を名乗り、秀忠の家臣として奉公することになります。そして、領地没収の知らせを聞いた牛越城を「御改易凶瑞ノ城(不吉な城)」として慶長8年に小高城へ居城を移し、そのおよそ9年後の慶長16年(1611)12月に小高城から中村城へ居城を移しました。
 戦国時代から江戸時代という時代の変わり目を生きた利胤は、寛永2年(1625)9月わずか6歳という幼い嫡子虎之助を遺し45歳という若さで死去し、(どう)(けい)()へ葬られました。

18代 相馬義胤

生没年:元和6年(1620)~慶安4年(1651)3月5日

徳川と深い縁をもった若き当主

 相馬(とし)(たね)の嫡子として生まれた虎之助は、寛永2年(1625)9月に父利胤が若くして死去したために、わずか6歳で家督を継ぐことになりました。しかし領内を取り仕切るにはあまりにも幼かったため、祖父(よし)(たね)は隠居地の(しね)()(ぐん)(いずみ)()から中村城に移り、虎之助を後見することになります。寛永6年(1629)5月、虎之介は祖父義胤の「義」字を譲られ義胤と名乗ります。この「義」字は、佐竹(よし)(しげ)から義胤がもらい受けた一字だったことから、佐竹(よし)(のぶ)に知らせたうえ譲与となりました。
 義胤は、祖父義胤が寛永12年(1635)に88歳で死去するまで、徐々に相馬家当主としての役割を引き継いでいったと思われ、江戸城の石垣や堀の()(しん)(かい)(えき)にともなう(かわ)(ごえ)城や二本松城の在番(一定期間、遠隔地の城に滞在して勤務する職)、大阪城加番(大阪城と駿府城に置かれた勤番に加勢して警備にあたる職)を勤めるなど、大名としての役割を着実に果たしていきました。

義胤の晩年と「末期養子」

 慶安4年(1651)2月ころより体調を崩した義胤は、3月5日回復しないまま江戸で死去しました。父(とし)(たね)よりも若く32歳という若さでした。義胤が死去したのは実際には3日でしたが、義胤の遺言を遺言状として整え幕府に提出したのが5日だったため、つじつま合わせが図られていました。
 この義胤の遺言状には、将軍に対して奉公ができなくなったことを詫びるとともに、土屋(とし)(なお)の次男を養子に迎えることなどを願い出ることなどが記されていました。これは、死去の直前に養子を迎え入れることを願い出る「(まつ)()養子」の許可を幕府に対して申請したことを意味しています。幕府は末期養子を原則禁止していたため、義胤の死は相馬家存続の危機だったということがいえます。
 義胤が体調を崩したころとほぼ同じ時期に将軍徳川家光も体調を崩し、4月20日に死去しました。このため、義胤の末期養子願いは一時中断せざるを得ませんでした。家光の跡を継いだ家綱の体制が落ち着きをみせた10月ころに幕府へ相馬家相続の嘆願活動を再開し、承応元年(1652)2月8日に相馬家相続が認められました。この間に、幕府は末期養子の禁を緩和する動きをみせ、50歳以下で死去した場合には末期養子を認めるというものでした。幕府は相馬家のために緩和したわけではありませんが、相馬家にとっては追い風になったと思われます。

「忠臣」金沢忠兵衛

 同()()()境内の相馬家墓地の葬られている相馬家一族のなかで、義胤は唯一(たま)()が建立されています。これは、徳川家康の七男(ただ)(てる)の母茶阿御方が江戸城で養育した女性が義胤の母長松院であったことから、義胤は歴代当主のなかでも徳川と縁の深い人物だったことが影響しているのかもしれません。
 なお、義胤の霊屋の脇には殉死した金澤忠兵衛の墓が建っています。忠兵衛は義胤のそば近くに仕えていたわけではありませんが、賢主である義胤の死去に際して追腹を切る者がいないことを嘆き、自身の先祖が代々相馬家に仕え討死したこと、今は安静の世のため討死はできないが切腹することで先祖の討死の数に加わりたいとして、親類縁者の反対を押し切り切腹したと伝えられています。

18代 相馬義胤の霊屋

金沢忠兵衛の墓標

19代 相馬忠胤

生没年:寛永14年(1637)~延宝元年(1673)11月2日

譜代大名から婿入り、藩政を確立した名君

 若くして死去した相馬(よし)(たね)には跡を継ぐ男子はおらず、於亀という娘がいるのみでした。幕府から(まつ)()養子の許しを得たことから、相馬家と姻戚関係にある土屋家から、土屋(とし)(なお)の次男(なお)(かた)を於亀と結婚させ婿養子として迎え入れました。初めは相馬(かつ)(たね)と名乗った(ただ)(たね)は、承応元年(1652)2月8日に義胤の後継ぎとして相馬家を相続し、同月13日には将軍徳川家綱に継目相続の礼を済ませました。

忠胤の政策

19代 相馬忠胤

 忠胤の治世下ではさまざまな改革が実施され、明暦2~3年(1656~1657)にかけて領内で実施された総検地はそのひとつということができます。この時の検地は、村の位(田畑の等級)を9段にわけ、さらに段ごとに上・中・下の3段に分け、位に応じて村高を設定するというものです。この検地の目的は領内の(めん)(あい)(年貢率)を一様にすることにあり、さらにこの検地に合わせて家臣の知行地の再編成が実施され、新たに知行宛行(あてがい)状が発給されました。

忠胤の政治思想

19代 相馬忠胤の五輪塔

 万治2年(1659)2月29日、御譜代並に仰せつけられた忠胤には帝鑑間詰(ていかんのまづめ)が命じられます。これは、これまで外様と位置付けられてきた相馬家が譜代としての扱いになったことを意味し、忠胤が譜代大名の土屋家から相馬家に養子に入ったことが大きかったと思われます。
 寛文2年(1662)4月、忠胤は会所の面々に対して自筆の書付を残して、参勤交代のために江戸に向けて出発しました。そこには、自身の留守中には()(たん)なく意見を出し合うことが仕置の第一であることなどが記されていました。この書付は郡代に渡され、以降は毎年の()()(はじめ)の際に会所に掛けられることになりました。
 日ごろから政務に滞りや間違いがあってはならないと考えていた忠胤の政治思想を垣間見ることができます。また、このタイミングで書付が出された背景には、同年3月28日に起こった「奥州筋大地震」が関係しているかもしれません。地震の規模や被害等の詳細は不明ですが、不安定な世上のなか領国を離れなければならない忠胤が、家臣に対して非常時にあっても遅滞なく政務を執り行うべきことを書付として残したとも考えられます。
 延宝元年(1673)11月2日に37歳で死去した忠胤は(どう)(けい)()に葬られました。領内の総検地や知行制改革、会所の設置、家臣団の再編成などさまざまな政策を実施した忠胤の治世は、その後につづく中村藩の藩政が確立した時期ということができます。

20代 相馬貞胤

生没年:万治2年(1659)5月9日~延宝7年(1679)11月23日

若くして亡くなった悲運の当主

20代 相馬貞胤の五輪塔

 はじめ(のぶ)(たね)を名乗った相馬(さだ)(たね)は、延宝元年(1673)11月2日父(ただ)(たね)が死去した翌月、若干15歳にして家督を継ぎました。まだ元服前、前髪がついた状態での跡目相続でした。また、父の死から約3か月後の延宝2年(1674)2月2日には、母於亀も34歳で死去しており、若くして両親を亡くしています。
 延宝2年3月晦日に半元服(()(そで)(なおし))、12月に前髪を下ろし、初のお国入りとなった同7年(1679)7月、中村妙見社で元服の式典が行われました。城下ではお国入りを祝う町踊りも行われ、貞胤はそれを見物したと伝えられています。
 在位中は、中村在城時の住居として二の丸に館を造立したり、父忠胤のころ寛文10年(1670)に焼失した中村城天守の再建を検討したり、江戸(つの)(はず)の下屋敷を定めることなどを行いました。しかし、延宝7年10月9日より持病が再発した貞胤は、11月23日に21歳の若さで死去しました。在位期間もわずかに6年弱という短さでした。貞胤には於亀という娘がいましたが跡を継ぐ嫡子がいなかったために、弟(まさ)(たね)が兄貞胤の養子となって家督を継承することになります。

貞胤の妻 於梅

 貞胤は譜代の重鎮・板倉(しげ)(のり)下野(しもつけ)(からす)(やま)藩主)の五女於梅を妻に迎えていましたが、結婚後わずか3年半ほどで貞胤が死去したため、実家の兄板倉(しげ)(たね)(烏山藩主)は18歳と年若い妹の再縁を望んでいました。そこで、延宝8年(1680)3月6日、土屋(まさ)(なお)(土浦藩主、貞胤の父忠胤の従兄弟)を仲介人として於梅を板倉家へ里帰りさせ伯父重直の養女としました。なお、貞胤・於梅との間に生まれた於亀は、相馬家に残り、貞胤の弟・昌胤に養育されることとなった。
 板倉家に戻った於梅は、貞享元年(1684)4月「おふさ」と改名しましたが、同3年(1686)5月10日、他家へ嫁ぐことなく25歳で死去しました。葬儀は江戸牛込の(ほう)(せん)()で行われ、遺骨は板倉家菩提寺(ちょう)(えん)()(愛知県西尾市)と相馬家菩提寺(どう)(けい)()に分骨され葬られました。
 貞胤・於梅の結婚生活は3年半ほどの短い年月で幕を閉じました。於梅は夫との死別、一人娘を残して実家へ里帰り、若くしての死去、という人生を歩んだ悲運な女性であり、貞胤も若干21歳にして死去しました。貞胤の眠る同慶寺に於梅の遺骨が分骨され、隣り合うかたちの五輪塔ではありませんが、“夫婦”として葬られたことは、せめて死後は永く結ばれてほしいと、板倉・相馬両家が計らったのかもしれません。

22代 相馬敍胤

生没年:延宝5年(1677)4月4日~正徳元年(1711)4月20日

後継者は誰に?「筋目」をとおす

22代 相馬敍胤

 延宝5年(1677)4月4日、佐竹(よし)(ずみ)の次男として生まれた(きゅう)(うま)は、継嗣がおらず体調を崩していた21代相馬(まさ)(たね)の願いによって元禄9年(1696)7月25日に相馬家に養子入りし、翌26日(のぶ)(たね)に改名しました。翌年(1697)1月15日、昌胤の娘於品と縁組みし、翌11年(1698)7月24日に長男次郎が誕生、翌12年(1699)閏9月6日には次男圓壽丸が誕生するなど男子に恵まれ、同14年(1701)2月11日に養父昌胤の隠居にともない24歳で家督を継承しました。
 家督継承してまもなく2月29日に圓壽丸が疱瘡で死去、翌年(1702)2月23日鍋千代(のちの徳胤)が誕生するものの、5日後の2月28日には長男次郎が死去しました。3人の男子のうち次郎、圓壽丸が相次いで死去したために、3男の鍋千代を嫡子として育てることになります。その後、鍋千代は「菊千代」と改名し、宝永5年(1708)1月15日には菊千代へ「(のり)(たね)」の(いみな)を与えられました。

22代 相馬敍胤の五輪塔

 以前からたびたび体調を崩していた敍胤は、宝永5年6月から、家督を養父である昌胤の実子(きよ)(たね)(のちの(たか)(たね))に相続するための調整をはじめ、同年12月に清胤を嫡子と定めました。自身の子徳胤ではなく清胤を嫡子としたのは、敍胤自身は昌胤の養子であり、まず昌胤の実子清胤こそ「筋目」であると考えたからです。そして、「末々は菊千代(徳胤)へ家督」を譲られるよう希望し幕府に届け出ました。翌6年(1709)6月5日、敍胤は病気により隠居し清胤が跡目を相続しました。翌7年(1710)7月には療養のため中村へ下向しましたが、そのまま体調が戻ることなく、正徳元年(1711)4月20日、35歳で死去しました。
 敍胤の跡を継いで23代当主となった清胤(尊胤)は、その後50年以上もの長いあいだ藩を治めました。敍胤によって「末々は家督を」継がせるための(せい)()(跡継ぎ・世継ぎ)として、また正徳元年8月には正式に清胤の嫡子と定められた敍胤の実子徳胤は、清胤の治世が50年以上にも及んだことが影響して、跡を継ぐことなく宝暦2年(1752)5月13日、養父清胤に先立ち51歳で死去しました。

24代 相馬怒胤

生没年:享保19年(1734)11月5日~寛政3年(1791)8月14日

文武を推奨、自ら武芸を学ぶ

24代 相馬怒胤

 享保19年(1734)11月5日、相馬(のり)(たね)(22代(のぶ)(たね)の子)と側室(長栄院)の子として(もろ)(たね)は誕生しました。寛延4年(宝暦元年/1751)1月、23代(たか)(たね)(せい)()である徳胤の体調が悪かったため、尊胤は徳胤の子恕胤を嫡孫とする願書を幕府に提出します。その翌年(1752)5月13日、父徳胤は家督を継ぐことなく51歳で死去したため、8月には嫡孫承祖(嫡孫が直接に祖父の家督を継承すること)が幕府から認められることになります。それから約13年後の明和2年(1765)5月21日、尊胤の隠居により恕胤は家督を相続し24代当主となりました。

24代 相馬怒胤の五輪塔

 恕胤は、文武両道に熱心な当主だったとされ、儒学者を招いて講義を聴いたり、自ら甲州流兵法を学んだほか、藩士にも武芸を奨励したと伝えらえています。また、幕府の土木工事など公役への出費や、先代の尊胤のころから、宝暦の飢饉をはじめとして不作気味になりつつあったことによって、藩財政の立て直しに苦心しました。恕胤は藩士への給録借上げなど倹約につとめましたが、治世の晩年に起こった天明の大飢饉によって、藩財政の逼迫は極まってしまうことになります。

恕胤の晩年

 天明元年(1781)5月19日、恕胤を支えてきた正室於もてが死去、同3年(1783)7月25日には上野(こうづけ)小幡(おばた)藩主松平(ただ)(よし)の子の(ただ)(ふさ)との婚姻が決まっていた三女の於邦が輿入れ直前に急死するなど不幸が重なりました。ちょうどその頃、恕胤自身も体調を崩しており、立て続けに起こった天明の大飢饉や伝染病などで心労もたたってしまったのか、同年10月に隠居願いを幕府に提出し、12月にそれが認められ嫡子(よし)(たね)が家督を継承しました。なお、恕胤の嫡子は()(おり)(齋胤)でしたが、伊織は病弱を理由として安永2年(1773)3月25日に廃嫡され、弟吉次郎(祥胤)が嫡子と定められました。
 恕胤は中村城下北町三ノ丸の館に移り住み、「屋形様」と称されて隠居生活を送ることになります。その約8年後の寛政3年(1791)8月6日、江戸屋敷にいた恕胤は療養のため中村へ出立、8月14日に三の丸に到着したものの回復することなく58歳の生涯を閉じました。

25代 相馬祥胤

生没年:明和2年(1765)6月3日~文化13年(1816)6月20日

天明の飢饉のなか、領民を思う

25代 相馬祥胤

 東北地方に大きな被害をもたらした天明の大飢饉がはじまったころの天明3年(1783)に相馬(よし)(たね)は父(もろ)(たね)から家督を継承しました。
 この天明の大飢饉によって、中村藩はわずか10か月で人口の4分の1を失い、毎年のように5万から6万石の(そん)(もう)(だか)を記録しました。そこで、天明4年(1784)12月3日、祥胤は江戸幕府に対して1万両の拝借金願いを提出しました。この拝借金願いには中村藩の深刻な被害が記されるとともに、飢饉によって疲弊した領民を救おうにもその手当となる資金がないという領民に対する祥胤のもどかしい思いも記されていました。これに対して幕府は、一旦は拝借金願いを却下したものの、最終的に5千両の拝借金を許可しました。そして、日頃から備えをすべきところを怠ったことが原因であることが幕府から指摘され、困ったときに願いごとをするのは不届きであるとして、祥胤は幕府から謹慎を命じられます。

25代 相馬祥胤の五輪塔

 その後も打ち続く大雨や(かん)(ばつ)、地震などさまざまな災害に対して、長雨時の晴天祈祷や旱魃時の雨乞い祈祷をはじめ、多額の出費を抑えるために参勤交代などの公役免除を求めるなど対策に追われました。
 領内の村々に対しては飢饉に備えて貯穀するための()(そう)の設置や3男3女以上への養育料の支給、役人を減員して倹約をはかるなど、さまざまな対策を施しました。そして、天明8年に祥胤が(みょう)(けん)(しゃ)に奉った願文には、倹約を貫くことを決意するとともに、相馬家の行事としてもっとも大切な野馬追を省略して行うことなどが記されています。
 また、寛政5年(1793)正月には武家・百姓・町人のそれぞれに対して初めて法令が掲げられました。そこには、それぞれに対してあるべき姿や道を示すとともに、質素倹約に努め身分に相応しく暮らすことが明記されました。
 このように、さまざまな対策を実施するなか、持病が悪化した祥胤は享和元年(1801)3月に嫡子(むら)(たね)に家督を譲り、その15年後の文化13年(1816)6月に58歳で死去しました。およそ18年におよんだ祥胤の治世は、飢饉への対応に追われたということができます。しかし、祥胤の実施したさまざまな対策は、祥胤以降も形を変えながら続けられることになります。

26代 相馬樹胤

生没年:天明元年(1781)11月21日~天保10年(1839)9月22日

飢饉にあえぎながらも力を尽くす

26代 相馬樹胤

 天明の大飢饉がはじまる直前の天明元年(1781)11月に生まれ、享和元年(1801)3月に父(よし)(たね)から家督を譲られた(むら)(たね)も度重なる災害への対応と飢饉からの復興に尽力したひとりです。
 21歳で家督を相続した樹胤は、父祥胤の政策を引き継いで、飢饉によって減少した人口の回復、荒廃した田畑の再開発、備荒貯穀のため、養育料の支給や新百姓取立、囲米などを実施しました。しかし、養育料の支給を一時中断せざるを得ないほど中村藩の財政は(ひっ)(ぱく)していました。
 そこで、文化元年(1804)3月には天明の大飢饉による死者の供養を命じるとともに、百石以上の役人に対して倹約を命じました。そして、身分にかかわらず怠りなく職務に励むことや、長時間の酒宴を戒めるなど生活そのものを引き締めることなど命じています。

26代 相馬樹胤の墓標

 文化4年(1807)11月になると、樹胤は惣家中に対して、5年間という期限を定めて禄高に応じて俸禄を削減するという倹約令を出しました。さらに文化10年(1813)10月には百石以上の役人を減員する倹約を実施するなど、たびたび倹約令を出し、家中の引き締めを行いました。しかし、翌月には長く患っていた病を理由に隠居届を幕府に提出し、家督を弟(ます)(たね)に譲りました。
 天保10年(1839)9月、59歳で死去した樹胤は、逼迫した藩財政を立て直すことに力を尽くさざるを得ませんでした。樹胤の治世は13年ほどになりますが、樹胤がたびたび実施した倹約は、広く行きわたり家中に対して倹約の意識を植え付けることになりました。そのことは、益胤・(みつ)(たね)の治世で実施されたさまざまな政策へとつながっていきます。

27代 相馬益胤

生没年:寛政8年(1796)1月10日~弘化2年(1845)6月12日

中村藩復興への足掛かりを築く

 相馬(ます)(たね)は、兄(むら)(たね)の隠居を受けて文化10年(1813)に17歳で家督を相続しました。家督を相続するにあたり、益胤を樹胤の養子とする形が整えられました。益胤も養父である樹胤と同様に藩の(ひっ)(ぱく)した財政の立て直し、荒れ果てた領内の農村の復興に尽力しました。

緊縮政策「文化の厳法」

27代 相馬益胤

 文化13年(1816)12月、5年間に限り表高6万石の格式を1万石に切り詰める重倹約令を出しました。そして、翌年(1817)9月には更なる緊縮財政の実施と備考貯蓄を命じました。これらの政策は期限を延長して続けられました。のちに「文化の厳法」と呼ばれるようになる益胤の政策は、これまでにない徹底した倹約であり、益胤自身が倹約の範を領内に示したということができます。

報徳仕法の導入

27代 相馬益胤の墓標

 さらに、人材の登用や育成にも力を入れた益胤は、わずか28歳という若さの池田(たね)(なお)や浪人生活していた草野(まさ)(とき)を家老職に抜擢しました。彼らは、(ひっ)(ぱく)した藩財政の立て直しや荒れ果てた農村復興のために二宮尊徳の創始した報徳仕法を藩内で実施するため、報徳仕法に疑念を持っていた藩士ら説得し、その導入にこぎつけました。また、文政5年(1822)4月に学問所「講所」(のちの育英館)を創設し、身分の上下にかかわらず人材の育成に努めました。
 その他にも、農家の次男・三男を独立させる「()(はつ)(だて)(ひゃく)(しょう)(とり)(たて)」、他領からの移民を召致する「(かね)(ぬし)(だて)百姓取立」「()(たのみ)(だて)百姓取立」などを実施して、飢饉により減った生産人口を増加させて荒れ果てた田畑の立て直しに努めました。

益胤の晩年

 祥())・樹胤の政策を引き継いだ益胤は天保6年(1835)に家督を嫡子(みつ)(たね)に譲りました。隠居後も益胤は充胤の治世を支えながら弘化2年(1845)6月に50歳で死去しました。20年以上におよんだ益胤の治世は、中村藩の復興への足掛かりを築いたということができ、益胤が実施したさまざまな政策は充胤へと引き継がれていきます。

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