原町区の文化財2
12 紙本著色野馬図
「しほんちゃくしょくのまおいず」
野馬懸図
種別
県指定重要有形民俗文化財
指定年月日
平成12年3月31日
所在地
南相馬市立博物館
所有者
個人
野馬追行列図
紙本著色野馬図は「野馬追行列図」と「野馬懸図(のまかけず)」の二鋪からなります。
「野馬追行列図」は中央遠景に本陣の山、前景に野馬追の行列を描いています。人物の表現は類型的ですが、装束や旗、指物など各人の持ち物などの描写はきめが細かく彩色も正確です。
「野馬懸図」は小高妙見神社境内での野馬懸神事を描いたものです。竹矢来(たけやらい)で囲んだ祭場の左上方に藩主が座す陣屋、中央に御小人(おこびと)が野馬を素手で捕らえようとする様子を描いています。御小人たちの描写や見学する群衆の姿は当時の野馬懸神事の雰囲気を表現しています。
参考
両図の作成年代は行列の鳥毛の槍を持つ者の鎖帷子(くさりかたびら)の装束から天明2年(1782年)以前にさかのぼるものと推測されます。
13 相馬野馬追図屏風
「そうまのまおいずびょうぶ」
種別
県指定有形民俗文化財
指定年月日
平成28年4月26日
所在地
南相馬市立博物館
所有者
南相馬市
大きさ
縦1.7メートル 横3.46メートル(6曲一双)
右隻(みぎせき)は、下方に野馬木戸(原町木戸か)を通り野馬原に入る緋母衣(ひほろ)の騎馬行列と見物衆の姿を華やかに描き、左端には陣立(備え)隊形、画面中央には野馬を追う様子、さらに右上方には、陣幕をめぐらし幟(のぼり)、旗をひるがえす御本陣、備陣(そないじん)の情景を躍動的に描き、山際には立切の姿も見えます。
左隻(ひだりせき)は右隻に連続する情景で野馬原で追い下げられた野馬が木戸(巣掛場木戸か)から追い出され、野馬道の途中で潮水に入り(野馬沢の海岸で潮垢離(しおあかり)をとるようすか)、南進して小高古城跡の竹矢来の中に入り、古城跡の妙見宮の前で御野馬掛(のまかけ)(懸とも書く)を行っている様子を刻明に表しています。
参考
作者、時代とも不明であるが、江戸時代後半期と推定されます。なお、作者は藩の絵師か、狩野派の画法を習得した人物と考えられます。
緋母衣…藩主かその名代が着用するものです。
14 陣太鼓
「じんだいこ」
種別
市指定有形民俗文化財
指定年月日
昭和42年8月29日
所在地
南相馬市立博物館
所有者
相馬太田神社
大きさ
径39センチメートル 筒長46センチメートル
明治5年(1872)奥州中村藩主誠胤(ともたね)より鳥毛槍とともに太田神社に4面奉納(4めんほうのう)されたが、うち2面は破損し使用されないまま現存しています。
胴の材質はけやきで造られています。陣太鼓は昔戦場で気勢をあげ、進退を知らせるために鳴らした太鼓で、掛り太鼓、押し太鼓、戦鼓などとも言いほら貝とともになくてはならないものでありました。
寛文5年(1665)奥州中村藩主忠胤は武田流軍師大江又左衛門と砲術の関八郎左衛門を招き、武田流の兵法を戦術にとり入れ、野馬追にも10数備の陣を布き、戦列の駆引に応用したものです。
参考
太田神社では昭和28年東京浅草の大鼓師宮本卯之助氏に修理を依頼した折、胴の内面に元禄4年(1691)製作の銘があり歴史的な物件としても貴重です。
15 平福穂庵筆の神馬図絵馬
「ひらふくすいあんひつのしんめずえま」
種別
市指定有形文化財〔絵画〕
指定年月日
昭和42年8月29日
所在地
南相馬市立博物館
所有者
相馬太田神社
大きさ
縦62.5センチメートル 横85.7センチメートル
この絵馬は相馬太田神社に奉納されたものです。板に描かれた神馬(しんめ)は赤色に描かれ、鞍(くら)、鐙(あぶみ)その他の馬具が着装され、その姿は前足が静止し、右の後足をわずかに足掻している程度で、馬自体が写実的に描かれています。
奉納者は現在の秋田県仙北郡仙南村飯詰の江畑氏で、明治8年(1875)に農作業に使う飼馬の安全祈願のため奉納されたといわれています。相馬太田神社は、相馬野馬追の三妙見社の一社ですが、東北及び北海道など幅広く馬の守護神として信仰されており、春秋のまつりや野馬追祭には各地から集まりました。
参考
絵師の平福穂庵は(1844-90)江戸時代の丸山4条派の画師で、現在の秋田県角舘町に生まれ、京に遊学した後地元で活動された方です。日本を代表する画家平福百穂は彼の子です。
16 鳥毛槍
「とりげやり」
種別
市指定有形民俗文化財
指定年月日
昭和42年8月29日
所在地
南相馬市立博物館
所有者
相馬太田神社
長さ
大鳥毛240センチメートル 小鳥毛210センチメートル
明治5年(1872)奥州中村藩主誠胤(ともたね)より太田神社に奉納されたものです。相馬氏の祖重胤(しげたね)が元亨3年(1323)総州相馬郡(利根川をはさみ取手を中心に茨城、千葉両県にまたがる地域)より奥州行方郡太田のこの地に移り館を構え、妙見尊を安置した妙見社(いまの相馬太田神社)との関係、および野馬追行列の先頭にたて石高を象徴する伝統的民俗資料として貴重なものです。
鳥毛には大鳥毛と小鳥毛があり、鎗を黒い鳥毛で覆った長柄(ながえ)の槍で、昔は実戦に使用したであろうが、藩政時代以降は専ら参勤交代とか野馬追等の行列に、権威の象徴として用いられていたようです。
参考
内訳としては、大鳥毛1本、小鳥毛5本で、格式からみると大鳥毛は1本10万石を表わし、小鳥毛は一万石を表わしています。
17 藤田家所蔵文書
「ふじたけしょぞうもんじょ」
種別
市指定有形文化財〔古文書〕
指定年月日
昭和42年8月29日
所在地
南相馬市
所有者
個人
藤田家文書は、藤田家に伝わる古文書を3巻の巻子本にまとめたものです。総数41通、内訳書状29通及び断片5通、その他知行書、嘆願書、公儀関係書、連歌の類です。
藤田家は、伊達尚宗のニ男掛田城主義宗の次子晴近から出た家で伊達郡藤田館を預かっていた。天文の末(16世紀中頃)伊達晴宗、輝宗父子に掛田城を攻められ落城し、晴近は相馬盛胤の内室である姉を頼って相馬の家臣となりその後代々相馬家に仕えた家柄です。
史料中、伊達安芸が江戸酒井邸で原田甲斐の刀傷のため落命した伊達騒動と称されている寛文事件で、伊達安芸の遺体が浜街道を下ったが相馬家では領内通過に際し武者5騎を随伴せしめ、丁重に礼を尽くしたといわれています。
参考
この古文書をまとめられたのは、先代の藤田魁氏で画筆に優れた人で、「相馬野馬追小考」の筆者です。
18 龍と唐獅子
龍
「りゅうとからじし」
種別
市指定有形文化財〔工芸品〕
指定年月日
昭和45年11月12日
所在地
原町区本町1丁目
所有者
三島神社
大きさ
龍
横2.5メートル×高0.45メートル
唐獅子
横0.32メートル×奥行0.48メートル×高0.35メートル
唐獅子
三島神社の宝物庫に「龍と一対の唐獅子」が保管されています。旧拝殿の向拝正面の貫の上と向拝柱の木鼻を飾っていた彫刻です。龍はケヤキの一木造り白木仕上げで、立体感のある造形と躍動感にあふれた渦巻きが見事です。
唐獅子もケヤキの一木造りで、全身が捲毛で覆われ殆どが白木仕上げですが、目は金・口は赤・牙は白に彩色されています。唐獅子の作は「中臣斎部大隈辰胸(なかとみのいんべおおくまたつむね)で、龍の作は上杉主殿正宗辰(うえすぎもんどのしょうむねたつ)と思われます。
三島神社は大山祗命をまつり相馬氏から南新田北新田・桜井の領地を与えられた新舘氏が鎮守として勧請したと伝えられています。
参考
向拝
拝殿正面の階段上にひさしが出ている部分
貫
柱と柱を貫いてつなぐ
勧進
神仏の分霊を移してまつること
19 野馬追図屏風
野馬追図屏風
「のまおいずびょうぶ」
種別
市指定有形文化財〔絵画〕
指定年月日
昭和45年11月12日
所在地
原町区本町二丁目
所有者
個人
大きさ
縦1.46メートル 横2.35メートル
夜の森(宵の森)の部分
屏風は鳥の子紙張りで左方に勇壮な野馬追図と原町木戸(現四葉交差点)を入れ、露店の列と、幟(のぼり)を建て幕を張り巡らし見世物小屋が描かれ、当時の盛況ぶりが窺(うかが)われます。上方に小さく幟を建てた御本陣がはるかに望まれ、遠近法による描写を巧に表しています。
左方下に小高い岡(宵(よい)の森か)がありその上に数本の松の木が繁り樹下に無数の民衆が屯して野馬追見物を楽しんでいます。画面上方にはいくつかの備陣(そなえじん)が張られ幟・旗が林立し野馬追の規模の大きさが描かれています。
屏風の左下に「壬寅季夏日武揚(みずのえとらきかびたけあき)処士千綬尋(せんじゅひろし)(印千尋)」と書き入れがあり、武揚とあるので武蔵国江戸の絵師と推定されます。
参考
仔細に検討すると、余すことなく表現し住民の生活の様子がうかがわれ面白い野馬追図です。
(注意)保存管理のため現在は一般公開はしておりません。
20 羽山岳の木戸跡
「はやまだけのきどあと」
種別
市指定史跡
指定年月日
昭和47年7月1日
所在地
原町区上太田字新橋
所有者
個人
野馬追原で放牧されていた野馬が増え、付近の農作物を荒したため相馬忠胤公(そうまただたねこう)が寛文6年(1666年)から3年を費やし野馬原の周囲に土手を築きました。
木戸は、野馬原内部と外部との出入り口であり、通行量の多い要所には木戸守を置いて人の往来や馬の管理に当らせました。「羽山岳の木戸跡」は浜街道から野馬追原に入る南の主要な入口でした。
参考
野馬土手の木戸跡としてその他確認される場所は、羽前場木戸、馬場上木戸、馬場下木戸、大木戸、原町木戸、桜井木戸、萱浜木戸、巣掛場木戸、一石坂木戸、市の渡木戸、瀧の木戸等があります。
21 泉の館跡
「いずみのたてあと」
種別
市指定史跡
指定年月日
昭和48年6月1日
所在地
原町区泉字館前
所有者
東北電力株式会社
大きさ
本丸跡東西100メートル×南北40メートル
泉の館跡は、東北電力総合技術訓練センター入口北側の丘陵にある中世の自然地形を利用して築城した山城跡で相馬氏の流れをくむ泉氏の居館と伝えられています。
泉氏は元亨3年(1323)ごろ下総(しもうさ)から奥州行方(なめかた)郡(南相馬地方)に下向した相馬重胤に従った泉宮内大夫胤康(いずみくないたゆうたねやす)を初代とし、戦国時代には、泉藤右衛門胤政(いずみとううえもんたねまさ)が禄地を与えられ、勢力を持っていました(奥相志)が、慶長2年(1597)牛越城築城に際し問題を起こし、相馬義胤の裁断を不服として泉の舘に火を放ち、会津に走り上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家臣となりました。
その後は小高の岡田八兵衛宣胤(おかだはちべいのぶたね)がこれを領有し慶長16年(1611)相馬氏の中村城へ移住するまで近くの館越の平館に居住しました。
参考
泉の舘跡には、相馬一族であった泉氏と深い関わりをもった中世山城として由緒もしっかりし、相馬郡内の舘跡の中でも重要な遺跡の一つに数えられています。
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更新日:2019年02月06日