原町区の指定外等文化財
46五台山
ごだいさん
所在地
原町区馬場字五台山
五台山は、相馬氏第11代領主「相馬重胤(そうましげたね)」が不治の難病にかかり、在位わずか4年(1436~40)で家督を子の高胤(たかたね)に譲り、この地に隠居して仏門に入り病気の養生に努めた場所です。身の回りの世話には、近臣の伯父太郎と甥太郎の二人だけで、妻子さえも対面を禁じられたといわれています。隠居の地は、山頂部の南北に伸びる峰を削り,東西16メートル、南北67メートルの長方形に整地された場所と推定され、所々に建物の土台石と思われる黒色の石が数十個散在しています。今も細い清流が前庭と思われるところを流れ、20メートルほどの糸滝となって落下しています。
このほか、金の鶏を埋めたという金鶏(きんけい)伝説が残っており、この話を伝い聞いて何人もの人達が探しましたが、見つけることができなかったという話もあります。
山頂には、探したときに掘ってできたといわれる大きなくぼ地が存在し、ここから太平洋を眺望することができます。
五台山遠望
五台山入口標柱
参考
五台山は、横川ダム上流の鉄山溜池の西側にある山で、山頂まで約30分で行きます。
47高倉の文殊菩薩像
たかのくらのもんじゅぼさつぞう
所在地
原町区高倉字東畑
所有者
高倉信徒
大きさ
約30センチメートル
高倉文殊菩薩像は、高倉文殊堂のご本尊で、唐獅子の上に乗っています。像の背後に空海作の銘があります。
元文(1736年~1740年)の頃、同慶寺26世月江禅心和尚、銭20貫文を寄進し、文殊大士百合草座舟後光を作成したと伝えられています。この高倉文殊菩薩像は、幾世橋(浪江町)・上浦(小高区)の文殊とともに相馬三文殊と称し殊勝の霊仏とされています。
この文殊菩薩は、古来より頗(すこぶ)る霊異があった。ある時野火が発生し堂に及んだとき山守門左衛門なる者が、堂中の格子を破り、ご本尊を出そうとしたが尊像が見えず、日もすでに暮れて空しく帰った。文殊寺別当の是弁覚非和尚が、翌日近辺を探したところ、本尊は文殊堂の南方の枯れた大木の根元にあり、人々その霊妙を感じたと言われています。
参考
1月の第2土曜日・日曜日に、ご本尊のご開帳があります。
48泉の不動明王尊像
いずみのふどうみょうおうそんぞう
所在地
原町区泉字寺家前
所有者
泉龍寺
大きさ
1尺7寸
寺家前(てらけまえ)の十一面観音堂に向かって左側に不動尊堂が並んでいます。(旧東光院境内)不動尊の言い伝えとして、明暦年間(1655年~1657年)泉村前向に正福寺が建立される。
安永7年(1778年)木食上人が相馬領にきて不動尊像を作った。後に小高の岩迫より泉に移され、文政11年(1828年)前向正福寺より当境内の東光院に移された。
正福寺堂用材の墨書記録によると、享保4己亥年(1719年)泉村不動尊京都より御下り以後年数60年、安永7戊戌年(つちのといぬとし)(1778年)4月上旬より取行5月中旬堂建立出来候。願主正福寺住義天精光とあります。木食(木喰)上人(1718年~1810年)は、93歳で没するまで全国を行脚し、千体の仏像を刻んだ僧です。しかし、言い伝えの木食来訪の安永7年以前に不動尊は正福寺に在りその遺作とはいえない。
ワンポイント
縁日は「泉の十一面観音像」と同時で1月20日、7月の第3日曜日で、この日に本尊のご開帳があります。
49重胤公御壇
しげたねこうおだん
所在地
原町区上太田字前田
所有者
岩屋寺
太田山岩屋寺(おおたさんがんおくじ)の裏山頂部に、重胤公御壇と呼ばれる旧相馬領主第11代重胤公の墳墓があります。墓は、土を土饅頭型(どまんじゅうがた)に築いた盛土塚で、この地方ではこの形式の墓を壇(だん)と称しています。
御壇は、5百年余の風雨により形も崩れたので、昭和53年4月岩屋寺の鐘楼堂建立に併せて、開基の功績ある重胤を敬慕する信徒の篤志により、壇の東側に供養塔として五輪塔が建立されました。
重胤公は、永享8年(1436年)11月、家督を継いだが不治の難病にかかり、在位わずか4年にして、封を嫡子高胤に譲りました。亨永11年(1439年)正月10日龕置寺(現岩屋寺)を墓院とし、世塵を厭い仏門に入り、行方郡馬場村(なめかたぐんばばむら)(現原町区馬場)の山奥五台山に退居して養病に努めました。しかし養病の甲斐なく数年を経て、遂にこの五台山において悲運な生涯を終えたのです。
参考
五台山には病気の養生に努められた場所が見受けられます。
50北新田の御壇
きたにいだのおだん
所在地
原町区北新田字東畑
所有者
相馬和胤外
北新田の御壇は、新田川の北岸の丘陵に位置しています。壇とは土饅頭型に築いた塚のことで、この場所に相馬家の墓所があります。縦断する道路を境に,東側に相馬家13代盛胤(もりたね)、盛胤夫人、西側に12代高胤(たかたね)、14代顕胤(あきたね)、同夫人、17代利胤(としたね)息女(18代義胤の姉)の6人が埋葬されています。
中世から近世の墓には、土を盛り、杉・松・もみ等の常緑樹を植え、標木とする風習が見られ、後ろには樹木に代えて笠塔婆や五輪塔が立てられるようになります。北新田の御壇についても頂部に大きな杉の切り株が残っており、中世から近世にかけての墓制の特徴を良好に残しています。
見学の際は文化財係へご一報ください。
御壇入口の案内板
相馬顕胤の墓
参考
相馬家の墓所は、11代重胤が岩屋寺に16代義胤(よしたね)以降は小高区の同慶寺にあります。また、21代昌胤(まさたね)23代尊胤(たかたね)墓所は浪江町の大聖寺にあり、このころから石塔を建てる墓制に変わっていきます。
51富田高慶と二宮尊徳の墓
とみたこうけいとにのみやそんとくのはか
所在地
原町区石神字坂下
所有者
富田高明
富田高慶と二宮尊徳の墓は、富田家墓地内にあります。尊徳の墓は、栃木県今市市ありますが、石神の墓は昭和30年に尊徳100年忌を記念し、今市市の墓を模して建立したものです。
天明年間(1781年~1789年)に全国規模で起きた「天明の飢饉」で相馬中村藩でも農村は疲弊し、藩財政は窮乏するなど大打撃を受けました。農村の建て直し、藩財政の確立のための、中村藩士で尊徳の弟子となった高慶が尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から27年間に領内226ヶ村のうち101ヶ村を対象に二宮御仕法を導入し成果をあげました。
高慶は,尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著すなど,尊徳の教えを広めることに尽力し、明治23年に77歳で亡くなり、この地に葬られました。
尊徳の墓
富田家墓所
ワンポイント
尊徳のはこの地に来ていませんが、妻子が戊辰戦争の戦禍を避けるため領内に移住し、明治30年まで、現在の石神生涯学習センター敷地内に住んでいました
52 牛越城跡
うしごえじょうあと
所在地
原町区牛越字舘
大きさ
標高73メートル 東西300メートル 南北280メートル
牛越城全景
この城跡は、牛越上総介定綱(うしごえかずさのすけさだつな)が文安2年(1445年)相馬高胤(たかたね)に滅ぼされるまで居住し、以降は相馬氏の支配下となり、相馬氏の家臣が「城番」として置かれた。
その後、相馬義胤が牛越城の改修を行い慶長2年(1597年)小高城より移り、ここを拠点に領内を支配しました。
慶長7年(1602年)5月牛越城下に於いて野馬追のさなかに相馬義胤に対し、関ヶ原の戦で徳川方に組しなかったとして領地が没収されたが、義胤の子息密胤(後の利胤)らの尽力により10月には相馬氏領地、宇多(うだ)・行方(なめかた)・標葉(しねは)の3郡の再支配が認められました。
翌8年牛越城は「凶瑞之城故」(相馬藩世紀)つまり領地没収という凶事にあった城との理由から廃され小高城に再移転し牛越城は廃城となりました。
ワンポイント
本城は、中世から近世にかけての平山城(ひらやまじろ)で、当時の縄張り(設計)の様子がよく保たれています。本丸・二の丸・東舘(ひがしだて)(三の丸)・帯曲輪(おびくるわ)・腰曲輪(こしくるわ)・空堀(からぼり)などの遺構を残しています「かいはまようすいろ」
53 萱浜用水路
かいはまようすいろ
起点
錦町(旧桜井村)
終点有
北萱浜見谷地
延長
約4100メートル(内切通し930メートル)
旧萱浜村(萱浜地区)は天明・天保の飢饉(18世紀後半~19世紀中頃)により村の戸数は盛時の宝永6年(1709年)の117戸から、天明6年(1786年)には38戸に激減しました。相馬中村藩では、こうした飢饉による農村荒廃と人口減少から村を復興させる「村おこし政策」として、「御仕法(報徳仕法)」の導入を図り成果を収めました。
御仕法に欠かせない最大事業は大規模水利事業でした。藩領内にあるため池や用水路の多くはこの時期に修理あるいは新たに築造されています。新軒の多い北萱浜集落の水源確保のために築かれた萱浜用水路もこの時期に築造されました。
この用水路は二宮尊徳の門人、荒専八至重設計指導のもと関係者の努力によって慶応4年(1868年)に完成しました。
スポーツセンター入口の用水路
桜井古墳公園脇の用水路
ワンポイント
新軒
他領から移り住んだ新農民や、農家のニ男等が独立し、農民となる政策のこと。
切通し
暗渠
54 植松廃寺跡
うえまつはいじあと
所在地
原町区
植松廃寺跡は、奈良・平安時代の遺跡で、古代の瓦が出土することで知られています。
ここから出土した瓦は、三蕊弁四葉花文軒丸瓦と呼ばれ、全国的に珍しい文様があり、朝鮮半島の高句麗の影響を受けたものと考えられます。この瓦と同じものが、上北高平字入道サク地内の遺跡(窯跡)からも出土しています。
発掘調査の結果、須恵器などの土器とともに植松廃寺跡と同じ紋様の瓦が出土し、寺跡で使用された瓦を生産していた窯跡と分かりました。
植松廃寺跡は、古代の相双地方の歴史を解明する上で貴重な遺跡です。
参考
古代の文献資料「続日本紀」には、神亀5年(728年)に白河に軍団を設置した記載があり、この頃、行方郡にも軍団が設置されたと考えられます。この寺は、行方郡の軍団跡と推測され、行方郡衙の泉廃寺跡(郡役所)とともに、当時の重要施設の一つであったと考えられます。
55 二宮家住宅跡
にのみやけじゅうたくあと
所在地
原町区石神字坂下
旧二宮家住宅
慶応4年(明治元年1868年)4月戊辰戦争の被害から逃れるため、二宮尊徳の子尊行とその家族は、藩からの誘いもあり江戸から中村藩に移り住んできました。時の藩主相馬李胤(誠胤)は石神村(原町区石神現在の石神生涯学習センター地内)に新しく家を建て住まわせました。さらに毎年米300俵を尊徳の祭祀料として与えました。明治4年尊徳の妻歌子、さらに同年尊行と相次いで病気で亡くなったため、蛯沢村(小高区蛯沢)に土着していた富田高慶は二宮家の東どなりに移り住み尊行の子尊親ら家族を援助しました。
明治10年(1877年)に尊親は、富田高慶らとともに、「復興社」をつくり、明治30年に孫尊親が北海道に移住するまでの間石神村を中心に活動しました。
二宮家の北海道移住後、住宅は石神村役場に使われていましたが、時代の伸展とともに手狭になり、旧住宅は西町に移築されました。その後昭和45年頃老朽化のため取り壊され現在は残っていません。
ワンポイント
復興社
報徳仕法の考えを広めることや、開拓事業を助けるため報徳金を集め事業を実施する目的に組織されました。
56 金沢製鉄遺跡群
かねざわせいてついせきぐん
所在地
原町区金沢
所有者
東北電力株式会社原町火力発電所構内
金沢製鉄遺跡群は、平成元年から平成6年まで県教育委員会が火力電所建設予定地内の発掘調査を行った結果出土したものです。
飛鳥時代後期(7世紀後半頃)から平安時代前期(10世紀頃)まで操業されていたと見られる製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴住居133軒、掘立柱建物29棟を確認し、古代製鉄遺跡としては国内最大の規模であることが判明しました。
8世紀後半に新技術が取り入れられ良質の鉄を多量に生産することが可能になったと考えられます。当時中央の政権は服従しない蝦夷を支配しようとしていました。このため、大量の武器、農具、工具が必要となり、その素材となる鉄を作っていたのがこの製鉄遺跡郡と考えれます。東北電力株式会社では、この遺構の保存のため埋蔵文化財保存館を建設し、一般公開をしています。
復元した箱形炉
製鉄のようす
ワンポイント
開放日
4月・5月・9月・10月の第2日曜日です。
問合せ
東北電力株式会社原町火力発電所総務課 24-1614
57 泉の酒井戸
いずみのさかいど
所在地
原町区泉字宮前
所有者
石橋 勉
泉の酒井戸と案内板
泉は伝説の里です。いつの時代かここに泉長者と称する富豪のものがいました。
もと紀州熊野(現和歌山県)の人で神使の鳥に導かれてこの地に来住したという。その屋敷(寺家前地内)は方1町に及んで礎石があり、今も古瓦を出しています。また、これより東80メートルの所にある十一面観音は長者の守護神といわれ、今は里人によって祀られています。
井水は、今では酒気こそないが清冽な湧水は昔と変わらず日夜絶えることがありません。
参考
この宮前の泉はかって銘酒を湧出し長者はその酒で財を成し、樋をかけて小浜の娘に送ったといわれています。
58 行方八社
なめかたはっしゃ
古代の神社信仰を物語るものに、行方八社があります。これは10世紀に編集された神社台帳ともいうべき「延喜式神名帳」に搭載された神社のことで「延喜式内社」あるいは「式内社」ともいわれる神社です。原町区内では次の5社です。
これらの神社は官社で、これらの神々は古代の蝦夷征討との関連でまつられ、陸上,海上交通の要地や、郡衙の近くにおかれたのです。
- 高座神社(押釜字前田)
- 日祭神社(大甕字舘)
- 冠嶺神社(信田沢字道の上)
- 多珂神社(高字小太郎内)
- 押雄神社(北新田字諏訪)
ワンポイント
行方郡―行方郡の地名初見は養老2年(718年)で、古代の行方郡には6つの郷がありました。
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更新日:2019年02月06日