埴谷雄高年譜
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西暦 | 元号 | 埴谷雄高年譜 | 世界の動き |
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1909 | 明治42 | 12月19日、父三郎、母アサの長男として、台湾新竹に出生 | |
1917 | 大正6 | ロシア革命 | |
1923 | 大正12 | 東京板橋に移転する。目白中学に編入学。 | 関東大震災 |
1928 | 昭和3 | 日本大学予科に入学 | |
1930 | 昭和5 | 日本大学予科中退。プロレタリア科学研究所農業問題研究会を経て、農民闘争社に入る。 | |
1931 | 昭和6 | 日本共産党入党 | 柳条湖事件 |
1932 | 昭和7 | 逮捕され、中野・豊多摩刑務所の未決囚として収監。獄中でカント『純粋理性批判』を読む。終生のテーマ〈自同律の不快〉を得る。 | |
1933 | 昭和8 | 転向上申書を提出し、懲役2年執行猶予4年の判決を受けて出所する。 | |
1939 | 昭和14 | 同人誌「構想」の創刊に参加。小説「洞窟」を発表。 | 第二次世界大戦開戦 |
1941 | 昭和16 | 敗戦まで特高警察の監視を受ける。 | 日米開戦 |
1942 | 昭和17 | 伊藤敏夫名で『ダニューブ』を翻訳する。 | |
1943 | 昭和18 | ドストエフスキイ『悪霊』の研究者であるウォルインスキイ『偉大なる憤怒の書』の翻訳を刊行。 | 学徒出陣 |
1944 | 昭和19 | 宇田川嘉彦名で『フランドル画家論抄』を刊行 | |
1945 | 昭和20 | 敗戦と同時に勤務先の経済雑誌社を辞め、小説『死霊』執筆と雑誌「近代文学」の創刊準備に専念する。 | 日本降伏 |
1946 | 昭和21 | 1月に「近代文学」創刊。同誌に『死霊』の連載を開始する。 | |
1948 | 昭和23 | 『死霊』(第一章から第三章を収録)を眞善美社から刊行。 | |
1950 | 昭和25 | 『不合理ゆえに吾信ず』を刊行。 | 朝鮮戦争勃発 |
1956 | 昭和31 | 花田清輝と〈モラリスト〉論争。スターリン主義を批判。 | ハンガリー事件 |
1960 | 昭和35 | 安保阻止デモ隊と国会内に入る。政治論文集『幻視のなかの政治』、短編集『虚空』を刊行。 | 日米新安保条約 |
1961 | 昭和36 | サド裁判特別弁護人になる。 | |
1964 | 昭和39 | 「近代文学」終刊 | 東京五輪開催 |
1965 | 昭和40 | 『ドストエフスキイ』刊行。『死霊』執筆を本格的に再開する。 | ベトナム北爆 |
1970 | 昭和45 | 『闇のなかの黒い馬』を刊行。第6回谷崎潤一郎賞を受賞。 | |
1975 | 昭和50 | 26年ぶりに『死霊』第五章「夢魔の世界」を発表。 | ベトナム戦争終結 |
1976 | 昭和51 | 『死霊』第一章から第五章を定本『死霊』として刊行。『死霊』が第8回日本文学大賞受賞作となる。 | ロッキード事件 |
1981 | 昭和56 | 『死霊』第六章「《愁いの王》」を発表 | |
1985 | 昭和60 | 吉本隆明と第二次〈政治と文学〉論争。『死霊』第七章「《最後の審判》」を刊行。 | |
1986 | 昭和61 | 『死霊』第八章「《月光のなかで》」を刊行。 | チェルノブイリ原発事故 |
1989 | 平成元 | 冷戦終結 | |
1991 | 平成3 | ソヴィエト連邦消滅 | |
1995 | 平成7 | 『死霊』第九章「《虚体》論―大宇宙の夢」を刊行。 | 阪神淡路大震災 |
1997 | 平成9 | 2月19日、脳梗塞により逝去。享年87歳。 |
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更新日:2018年12月25日