半谷清壽

更新日:2018年12月25日

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半谷清壽1858(安政5)~1932(昭和7)

相馬藩士半谷常清の長男として生まれる。

幕末維新の激動期に育ち、中村藩の二宮仕法による純農主義的藩政再建築、廃藩による士族帰農策に対し疑問を抱き、殖産興業、産業開発こそ近代化の道と確信して産業家を志した。

錦織晩香塾で学び三春師範にすすみ、安達郡で訓導二年ののち、郷里にもどり、酒造業を始めて産業人の道に入った。蚕談会を組織して養蚕業の振興、士族授産による相馬羽二重機業の創始と機械化の育成、湿田利用のイグサ生産・相馬ゴザ織業の導入、さらに、小高銀行の設立、昼曽根発電所の開業に尽力した。その一方で現在、小高区の夏の風物詩とも言える「火の祭り」を着想、演出して観光化するなど明治時代に東北の近代化を総

合的に構想、実践して地域振興の先駆者として足跡を残した。

また、常磐線開設に伴う安価な土地買収に反対して日本鉄道と渡りあう反骨ぶりを示すが、開通後8ヶ月間留置され、この間に患った眼疾がもとで片目を失明してしまった。このことを転機に実利的実業家から哲学的・思想家的実業家へと心眼を開かせることになった。理想郷建設を目指し、夜の森(富岡町)を開拓し、半谷農園の経営を行った。このときの入植を記念して300本の桜を植樹した。これが、夜の森公園のはじまりである。

代表著書には『将来之東北』(丸山舎版1906年)があり、序文を新渡戸稲造、原敬、内村鑑三らが執筆している。この著作では100項目以上に分けて東北の現状を分析し、極めて具体的に将来の東北の方策を列挙しているものである。

また、磐城水電株式会社創立に尽力し、1912(大正元)年には経世済民の信条から政界に進出、3期9年衆議院議員として活躍。翌1913(大正2)は小高銀砂工場を設立。晩年は「職業宗」の創始に情熱を傾けた。

1932(昭和7)年2月16日死去。『我職業宗』を没後出版。

(参考文献 『小高町史』、『おだかの歴史特別編1・人物編 おだかの人物』)

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教育委員会 生涯学習課 埴谷・島尾記念文学資料館


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福島県南相馬市小高区本町二丁目89番地-1(浮舟文化会館)


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