今も昔もアンコウがお好き(令和2年5月1日)

更新日:2024年04月01日

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馬、甲冑姿の男の子、菖蒲の花、田んぼ、柏餅、金太郎などが並ぶ帯状の画像

田植えの後のお楽しみは・・・

器に盛ったアンコウのとも和え。下に大葉が敷いてある。

アンコウのとも和え

5月は田植えの季節。田んぼが賑やかになって季節が一気に動き出す感じがします。

まだ現代のような機械化が進んでおらず、すべて人の手で田植えをしていた時代、田植えは集落全体の行事で、みんなが協力して行っていました。このように地域で協力して作業をする仕組みを「(ゆい)」と言います。

重労働の後には、お楽しみが待っているもので、田植えが終わると、「さなぶり」とか「マンガ(馬鍬)洗い」という慰労を兼ねた行事がありました。餅を搗いて田の神様をお祀りして、田植えが無事に終わったことを感謝し、手伝ってもらった人たちにもご馳走を振舞ってその働きを労います。

この時によく作られたのが、あんこ餅や「アンコウのとも和え」だったそうです。5月にアンコウ!?と思いますが、冬に比べて肝は小さくなりますが、この時期にもアンコウは水揚げされます。ひょっとすると、この時期に珍しいからこそ貴重なご馳走として振舞われたのかもしれません 。

アンコウのとも和えについては冬のサカナたち(平成28年12月1日)をご覧ください。

江戸の人々も食べていたアンコウのとも和え

アンコウの全身が写り、物差しを当てている

アンコウ

さて、「アンコウのとも和え」と言えば、『吉田屋源兵衛覚日記(よしだやげんべえおぼえにっき)』の中にも登場します。

『吉田屋源兵衛覚日記』は安政3年(1856)から明治11年(1878)までの吉田屋源兵衛による日記で、筆者源兵衛は、中村城下(現在の相馬市中村)の豪商、吉田屋鈴木庄右衛門の手代(商家へ仕える使用人の役職。番頭と丁稚(でっち)の中間職)でした。鈴木家は当時、武士身分を持つ中村第一の豪商(藩への出入りをする御用商人)でした。この日記には、天気から社会情勢まで様々な情報が詳細に記されています。

文久2年(1861)2月21日の日記には、鈴木家の四女おみん(16才)の婚姻時に振舞われた料理の献立が載っていますが、そこに「あんこうともあへ」、「アンコウともあえ」が出てくるのです。このことから江戸時代すでに「アンコウのとも和え」という料理が存在していたことが分かります。しかも、結婚のおめでたい席に供されるのですから、ご馳走という位置づけでしょう。他にもカレイ、塩引き、鯉の煮つけ、ウニなど豪勢なものが並んだようです。それもそのはず、江戸時代、アンコウは江戸五大珍味の一つとされた高級食材でした。(江戸五大珍味「三鳥二魚」:(つる)(ばん)雲雀(ひばり)(たい)鮟鱇(あんこう)

果たして、当時の「アンコウのとも和え」が現代に伝わるものと同じかどうかは分かりませんが、“アンコウのとも和え=ご馳走”という図式は、脈々と相馬地方に受け継がれているようです。田植え後のさなぶりに振舞われるのも合点がいく気がします。田植えという大事な仕事が無事に終わった感謝と喜びを、歴史あるご馳走のとも和えがあらわしているように感じられませんか。

令和になっても「とも和え」はご馳走

令和の現在でもアンコウは高級食材。とも和えはやっぱり贅沢で特別で、何よりも地元の人たちに愛されている味です。切り干し大根で“かさ増し”する知恵は、この地域の人たちがアンコウを大切に味わおうとするしおらしさ(・・・・・)にさえ感じます。

いつまでも大切に伝えていきたい味ですね。

(川崎 悠)

馬、甲冑姿の男の子、菖蒲の花、田んぼ、柏餅、金太郎などが並ぶ帯状の画像
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