かすれて読めない石碑~野馬追記念碑~(令和8年6月1日)

更新日:2026年06月01日

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馬、甲冑を着た男の子の絵の帯状の画像

 原町区三島町の夜の森公園には、数多くの石碑が建っています。そのなかのひとつに、刻まれた文字がかすれて読めなくなった石碑があります。ところどころ読める文字から、おそらく野馬追に関する記念碑だと推測できます。

 今回の「ちょこっと☆みゅーじあむ」では、この碑文がかすれて読めなくなった「野馬追記念碑」について紹介します。

「野馬追記念碑」の観察

 夜の森公園の北側には3基の石碑が並んで建っています(写真①)。これら3基のうち、右側に建っている石碑が「野馬追記念碑」です。左側は相馬地方の自由民権家として知られている(おか)()(けん)(ちょう)の「岡田君墓碑銘」。真ん中は、石碑中央に「(とう)(ぐう)殿下行啓紀念 従三位子爵相馬(より)(たね)謹書」と刻まれた、東宮(のちの大正天皇)が原町に行啓したことを記念して建てられた石碑です。

写真① 左から「岡田君墓碑銘」「東宮殿下行啓紀念 従三位子爵相馬順胤謹書」「野馬追記念碑」

写真①

写真②野馬追記念碑

写真②

 さて、この野馬追記念碑を観察すると、文字がかすれているため、一部の文字が読めるもののほとんど読むことができません(写真②)。「大正六年(ひのと)()五月」と、この石碑が建てられた年月をかろうじて読みとることができます。また、ところどころに「野馬」という文字を確認することができます。

 実は、この野馬追記念碑がかすれて読めなくなったのには理由があります。それは昭和18年(1943)ころにこの石碑が倒れ、それ以降、子どもたちが滑り台として石碑で遊んでいたためと伝わっています。倒れた石碑がいつごろ建て直されたのかは、残念ながら不明です。

写真③野馬追記念碑裏面

写真④

 一方、石碑の裏面は表面と異なり文字をはっきりと読むことができます(写真③)。石碑の裏面にはその石碑の建設にかかわった発起人や建設費用を寄付した人の名前と寄付金額などが刻まれています。この野馬追記念碑では「町長 松本良七」「助役 伏見勇七」「前助役 門馬文助」「町会議員 建碑委員 門馬直記」などと、当時の原町長や助役、町会議員など30人の名前が確認でき、町を挙げてこの石碑を建てたことがわかります。

絵葉書「野馬追記念碑」

 石碑の文字は読めなくなってしまいましたが、実は、当館が所蔵する絵葉書のなかに、この石碑の拓本の写真が印刷された絵葉書があります(写真④)。絵葉書の隅には「野馬追記念碑(夜ノ森公園ニ在リ)」と記されています。そして、現在の石碑ではかすれて読めなくなっていた文字をはっきりと読むことができます。

写真④野馬追記念碑 絵葉書(館蔵)

写真④

 1行目に「宮中顧問官正二位勲一等子爵(たか)(つじ)(おさ)(なが)篆額」とあり、題字の「駆野馬記」が高辻修長の篆書であることがわかります。最後の2行には「大正六年丁巳五月」「相馬 佐藤精明謹撰幷書」「陸前井内 阿部勇之丞刻」とあり、石碑の建設年月、石碑の文書を寄せた人物と石工の名前が記されています。

 さて、2行目からが本文になります。漢文調のため漢字がわかっても読むことはかなりむずかしいのですが、おおよそ3つの内容で構成されているようです。

①この石碑が建てられた理由、きっかけ(本文2行目から4行目)

 明治41年(1908)10月9日、東北地方を巡幸中の東宮(のちの大正天皇)を迎えて臨時野馬追が催されました。その後、原町でこれを記念して石碑を建てる動きが高まりました。そして、石碑を建てるにあたり、この地方の祭礼に詳しい佐藤精明に石碑の文面を依頼したということのようです。佐藤精明は深野(ふこうの)村(原町区深野)の在郷給人で、明治時代以降は教員として教育普及に貢献しました。また、漢学者でもあった佐藤精明は、市内各地の石碑に文書を寄せた人物としても知られています。

②江戸時代の野馬追の概要(本文4行目から23行目)

 毎年5月に大将である藩主が中村城から出陣し、鹿島を経て原町にいたる道のり、「野馬追原」と呼ばれた原の景色やその原を囲む野馬土手の規模、馬術の技術を競う(よい)(のり)のようすなどが記されています。そして、原で(そなえ)(部隊の隊列)をつくり、(かい)や鼓の音を合図に備を動かす(かけ)(ひき)のようす、野馬を小高まで追い「小高城址」で捕えた野馬を奉納する()()(かけ)のようすが記されています。

 ここには明治時代に始まった旗を奪い合う神旗争奪戦のようすが記されていないことから、江戸時代の野馬追を記しているといえます。

 ただ、この野馬追の概要の最後に「蓋古献俘於廟之遺意也(けだしいにしえはふをびょうにけんずるのいいなり)」とあり、昔は「俘」を「廟(小高妙見社ヵ)」に献上していたことを記しています。「俘」とは捕えた敵兵、捕虜のことを指すため、昔は野馬ではなく捕虜を献上したということでしょうか。また、「古」とはいつのことを指しているのでしょうか。佐藤精明がどのような資料にもとづき、このように書いたのかわかりませんが、少し気になる一文です。

③佐藤精明の野馬追に対する見解(本文23行目から26行目)

 佐藤精明は国にとって大事なことは「()」と「(かい)」にあるとしています。「祀」とはいわゆる祭礼のことを指し、「戒」とは武士として武を修練して備えることを指しているようです。野馬追はこの「祀」と「戒」の二つを同時に行うができ「一挙両得」であると記しています。

 また、野馬追は「徒為(といの)(かん)()」であってはならず「将張武威(まさにぶいをはるべき)」ものであると説いています。つまり、野馬追はいたずらに飾り立てるものではなく、武士としての力や威厳を見せるものであると、野馬追が武士の行事であることを強調していることがわかります。

 廃藩置県によって江戸時代のような野馬追を行うことができなくなったものの、鎧を着て背に旗を指し駆けるようすは以前と同じであるとしています。そして、太陽暦の導入によって5月に行われていた野馬追が7月になったことを記して文章を締めています。

むすび

 この石碑が建てられた大正時代は、原町が「町」として大きく発展した時期にあたり、野馬追は観光資源としての色合いが濃くなった時期でもあります。そして、大正2~3年(1913~14)ころには、野馬追の日程を、東宮が野馬追を台覧した10月9日を中心にした日程に変更する案が浮上していました。変わりつつあった町や野馬追を見た佐藤精明は、自身が思う野馬追の在り方を後世に伝えようとしていたのかもしれません。

 市内には数多くの石碑が建っていますが、意外なことに野馬追のことを記した石碑は、夜の森公園の「野馬追記念碑」以外に市内では確認されていません。かすれて読めなくなったとはいえ、野馬追の歴史や在り方を知ることができる貴重な石碑であるといえます。

(森 晃洋)

馬、甲冑を着た男の子の絵の帯状の画像

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