「小高の店」に意味がある。おいしい香り漂う、ふるさとの憩いの場
「小高の店」に意味がある。おいしい香り漂う、ふるさとの憩いの場
吉田祐子さん(33)
よしだ・ゆうこ
2016年7月〜 南相馬市小高区在住
南相馬市小高区生まれ
(18歳):福島県立相馬農業高等学校卒業後、東京都の製菓専門学校へ→(20歳):千葉県の結婚式場でパティシエールとして働く→(23歳):宮城県仙台市の系列店に異動→(28歳):南相馬市小高区へUターン
故郷喫茶CAFeカミツレ 店長・パティシエール
店名のカミツレの花言葉は「苦難の中の力」。東日本大震災および福島第一原子力発電所事故を機に数年間避難を余儀なくされた場所に、心を満たす食事と美しいスイーツが食べられる「故郷喫茶CAFeカミツレ」はあります。店主の吉田祐子さんは、小高区出身。菓子職人になる夢を叶えて帰還した、ふるさとでの起業について聞きました。
テレビの中の菓子職人にひとめぼれ 一皿に宇宙を描く仕事がしたい
Q1.パティシエールになろうと思ったのはどうしてですか?
A.
中学生のときに、『情熱大陸』でパティシエのアオキサダハルさんの回を観て、「あ、これだ!」と。それまでは、獣医や介護の仕事に興味があったんですが方向転換。高校の志望校も、食材に触れるために相馬農業高校に変えました。
どうしてそこまで思えたのかはすごく不思議で、理由も謎なんですけどね。振り返っても、相馬農業高校の食品科学科に進学して基礎を身につけられたのは、とても良かったです。例えばパンのつくり方は、その後専門学校に進んだ時にとても役にたちました。
高校卒業後は、東京都立川市にある国際製菓学校に進学しました。どうしてその学校にしたかというと、姉妹校がフランスにあるんですよ。卒業前にパリを含め、ヨーロッパを回れることが大きかったんです。
実際にいろいろな国のお菓子をみて、日本との色彩感覚の違いや盛り付け方の違いが印象に残っています。私は、もちろんお菓子をつくるのも好きなんですけど、盛り付けにワクワクするんですよ。
Q2.パティシエールとしてだけでなく、料理もつくるようなったのはどうしてですか?
A.専門学校を出てすぐに千葉県にある結婚式場で働き始めました。ウエディングケーキや、披露宴のコース料理で最後に提供するデザートをつくっていました。私たちは何百、何千と同じケーキをつくるんだけど、お客さまにとっては「大切な結婚式での一皿」。一つひとつ集中してつくっていくことにやりがいを感じました。
そこで2年半働いた後、仙台市にある同じ系列の結婚式場2店舗にデザートを納める仕事に就くことになって、東北に戻ってきました。そうしたら東日本大震災が起こって、結婚式場の仕事はこれまで通りには続けられなくなってしまったので、居酒屋、試食販売員、パン屋など、いろんな場所でアルバイトを経験しました。
一時期病気の療養で仕事を休んで、復帰するときにはまた別の仙台市のホテルで働きました。そこでは、料理も提供していたので、シェフがどんな風につくっているのか見たり、味見をしたりして、お菓子だけでなく料理にも興味が湧いてきました。
一時は失ったふるさとを取り戻せるのなら、何ができるか
Q3.南相馬市にUターンしたきっかけは何ですか?
A.
2016年の夏に小高区の避難指示が解除になったからです。家族みんなで戻ることにしました。
私はちょうど、2012年に1年療養していた病気で手術をもう一度することになって、1年間リハビリしながら仙台市と南相馬市を行ったり来たり。その間も南相馬市役所の人たちや官民合同チームと話して、Uターンして小高でできることがないか探っていきました。
最初はスーパーをやりたかったんですよ。小高の人たちに聞いたら「買い物に行くところがない」と言っていて、それなら自分が市場で仕入れて、便利な冷凍食品なども並べて……と思い描いたんです。でも、官民合同チームから、「今までの経験を生かして、お菓子の店をやったら?」と提案されて。
新しくできる復興拠点施設「小高交流センター」のテナントに応募することを提案されました。最初に小高で店をやりたいと思ってから、場所と内容が決まるまで3年かかりました。
Q4.「小高で自分の店を持ちたい」というモチベーションはどこから湧いてきたのでしょうか?
A.
東日本大震災当時、私は仙台市で暮らしていて、親やきょうだいと連絡が取れない状況になりました。小高の被害状況もニュースで知るしかなくて、今まで遊んだ場所がなくなっちゃうんだ、友達とも会えないかもしれないんだととても悲しかったんです。
だからこそ、避難区域が解除されて戻れると決まったときに、友だちを含めて、多くの知った顔の人たちが戻って来られればいいな、そのための場所がつくれたらなと思ったんです。
お客さんのほとんどは常連 一人ひとりを想い、よりよい店にしていきたい
Q5.「小高で自分の店を持つ」実現のための道のりを教えてください。
A.
開店準備の同時期に、原町区にあるブライダル&ホテルラフィーヌでの仕事もしつつ、かつての縁で水戸のブライダルの仕事も任されていました。9ヶ月くらい3つを掛け持ちする生活が続いて、ぎゅっと濃い日々でした。
それに、お店を開くとなると市場調査をしなくちゃいけなくて。私の場合は飲食店だったので、ラフィーヌでお世話になっているときに、宴会の件数やランチを食べに来る人たちの年齢層や数なんかも見ていました。
仕事が休みの月曜日や火曜日には小高に来て、3〜4時間おきくらいに車でぐるっと街中を走っていました。人通りを見たり、飲食店に停まっている車の数を数えたり。そんなことを1年半くらいはしていました。
あとは、場所が決まれば、機材を揃えなくてはいけません。そのために2000ページくらいあるカタログをひたすら見続けるのは辛かったですね。釣り銭はどのくらい用意しておくべき? なんてこともわからなくて。高校時代の同級生が何人か相双地域で飲食店をやっているので、いろいろ教えてくれてとても助かりました。そのネットワークには今でも助けられています。
Q6.開店から3年を振り返ってどうですか?
A.
牛肉のメニューだと必ず来てくれる近所のおじいさんがいたり、「なくなってほしくない店」って言ってもらえたり、この場所に根付いてきた手応えは感じます。ただ、オープンしてから半分以上の時期がコロナ禍だったこともあって、感覚的には1年とか1年半くらいしか経った気がしません。計画していたけれどできなかったことも、いろいろあります。
その1つとして、今、挑戦しようとしているのは、ランチのコース化です。今までもたまに、夜にはコース料理を出していたんですが、もうちょっと軽い感じのコースを考えています。どうしてもこれから材料も高騰していくので、現在のランチに付加価値をつけたものも考えていかなくてはいけませんから。
小高交流センターの契約が5年なので、ひとまずあと2年で結果を出したい。その後もできればここで、とは考えていますが、2年後に場所を変えなくてはいけない場合に備えて、アンテナは張っています。「原町でやれば?」なんて言われたこともあるけど、やっぱり小高でやりたいんです。
Q7.吉田さんにとって小高の魅力、ここで飲食店をやっている良さは何ですか?
A.
便利なところかといえば違うけれど、むしろ何もないのが良いことなのかな。だからこそ、水がきれいとか、山がすごく豊かだとか、自然の魅力を感じられます。私もリフレッシュしたい時には海によく行きます。波や海鳥を見ながらぼーっとしているとたった30分くらいでも、気分が変わります。
そうそう、最近、父と一緒に自宅で流星群を見たんですけど、周りに明かりが少ないからすごくきれいに見られたんですよ。移住を考えている人がいたら、「都会の賑やかさに疲れたなら、こっちに来てみたら?」と声をかけたいですね。
人口が少ないので、飲食店をするには不利かもしれません。でも、お客さんがまた食べたいって言ってくれたら、また同じものをつくりたいし、実際にそういうことができるのは、規模が小さいならではです。
メニューを考えるときも、常連さんが続けて通ってくれることを前提に組み立てます。食べ飽きないように、ご飯の定食とパンのセットを用意して、1週間ごとにメニューを入れ替えるようにしているんです。
カミツレのロゴにとまっているテントウムシは、お客さんのイメージなんです。「ここでゆっくり休んでね」という気持ちでいつも営業しています。
9時00分 | 起床 |
---|---|
10時00分 | 出勤・仕込み開始 |
11時00分 | 開店 |
13時30分 | 昼食 |
14時00分 | 仕込み |
18時00分 | 閉店・事務作業など |
21時00分 | 帰宅・夕食 |
0時00分 | 就寝 |
取材の日、ランチにはカミツレの定食と美しく盛られたデザートをいただきました。周りを見ると、慣れた様子でやってくる人たちの顔はおいしそうにほころび、店内にはゆったりした空気がただよっています。厨房にいる吉田さんはテキパキとオーダーに応えながらも忙しそうでしたが、お客さんとのやりとりではとびきりの笑顔。この居心地よさは、たしかに「ふるさと」だなと思いました。
テキスト:小野民 / 写真:鈴木宇宙
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更新日:2022年03月21日