親子は歳を重ねて似てくるもの?ものづくりで通じ合う、母娘のちょうどいい距離

更新日:2024年03月29日

親子は歳を重ねて似てくるもの?ものづくりで通じ合う、母娘のちょうどいい距離

対談の様子

<子>
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三浦 知枝 さん
みうら・ちえ

2004年〜南相馬市原町区在住

南相馬市小高区生まれ
【18歳】専門学校に進学するため上京→【20歳】東京都内で就職→【21歳】南相馬市にUターン→【現在】夫、中学生の子ども2人と4人暮らし

ハンドメイドガラス作家/ガラス工房兼ギャラリーショップ「kirako」運営

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<母>
和田 早苗 さん
わだ・さなえ

南相馬市小高区在住

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ガラス工房兼ギャラリー「kirako」を2022年に原町区でオープンした三浦知枝さん。夢を追いかけての進学で一度は東京へ出たものの、生きていく場所として選んだのはふるさとの南相馬でした。結婚や出産というライフイベントを経て、子育て中に見つけた「つくる」という道。さまざまな経験を糧に、今やガラス作家として生計を立てるまでになりました。その道のりをいつもそばで見守ってきたのは、母親の早苗さん。家業の機屋(はたや(注意)織物をつくる会社)を引退してからは、自らの趣味も楽しみながら、子どもや孫のサポートにも精を出してきました。そんな2人はもはやあうんの呼吸。だからこそ普段はしないちょっと真面目な話を、知枝さんの工房で、あらためてしてもらいまいした。

去る者追わず、帰る者は喜んで出迎える

ーーまずは早苗さんに、知枝さんが実家から巣立ったとき、Uターンしてきたときのことをお聞きしたいです。


早苗さん:
そうねぇ、心の中ではずっと、娘にそばにいてほしいと思っていました。だから、今はちょうどいい距離かな。何かあったらすぐ駆けつけられるしね。普段から工房に来ておしゃべりしたり、知枝のつくるものを身につけて周りにおすすめしたり(笑)。

だけど、うちでは子どもたちに一切「うちに戻れ」とは言わないできました。東日本大震災があったときも、本人にお任せです。私としては帰って来てほしくても、お父さんは絶対そういうことは言わないから、いつでも「自分たちで決めなさい」と。

順番に子どもたちが家を出て、知枝が専門学校へ進学するために上京した時は、娘ロスになって。1ヶ月くらい、知枝の部屋のドアを見ては泣いてました。

子どもたちが家を出てからは、「何が欲しいかな」といろいろ想像して、荷造りして送ってましたね。たまに帰省してくるときは、すごく嬉しかったですよ。

だから、今は本当に私は幸せだと思います。息子夫婦も娘夫婦もそばにいるわけですから。

対談の様子
対談の様子
対談の様子

ーー知枝さんは高校卒業後、どんな学校に進学したのですか。


知枝さん:
私は東京の専門学校のファッションビジネス学科で勉強していました。渋谷のファッションビル「109」で働く夢があったからです。高校生の頃はギャル全盛期で、単純だったんです(笑)。

専門学校を卒業して、ちゃんと109のお店に就職したんですが、ストレスですぐ体が悲鳴をあげてしまって。 1年くらいで「もう叶えた、帰ろう」って、わりとすんなり思えました。


早苗さん:
金髪で帰って来たんだよね。お父さんが駅まで迎えに行って、自分の娘がわかんなかったの(笑)。


知枝さん:
それ、全然覚えてないんだよ。

覚えているのは、新緑の時期に帰ってきて、お父さんとお母さんが乗っている車の後部座席にいて、窓の外の景色を眺めていたこと。木々の緑、川や海を見て、「あーやっぱりこっちだな」って。

今あらためて考えても、南相馬の自然が豊かなところはとても魅力的です。散歩をしたり車を運転しているだけでも、旅行をしているような感覚になるときが、けっこうあるんですよ。


早苗さん:
お父さんも東京から帰ってきたとき、そう思ったらしいねえ。


知枝さん:
同じこと思ってたんだね。だから私は、遊びに行くところが多くなくても、飽きることがないんですよ。

対談の様子

「女の部屋」でおかあさんの趣味

知枝さん:
私は南相馬に帰ってきて20年経って、今年で41歳。今の自分と同じ年頃にお母さんは何をしていたのかな。


早苗さん:
仕事一筋だったかなあ。機屋をやっていて、最初は外から働きに来ていた人もいたけれど、やがて夫婦2人で自動織機を入れてやるようになって、夜も昼も仕事という感じだった。


知枝さん:
そうでしたね。ずっと親は工場にいるから、家できょうだいゲンカしたら工場へ行くという感じだった。すごく忙しくしていたけれど、おままごと用のリカちゃんの服なんかも「こんなの欲しいな」って言ったら、すぐにつくってくれたのを覚えています。私の洋服もいろいろ手作りしてくれていたよね。結婚式のドレスだって……。


早苗さん:
結婚式のブーケをつくったり、打掛をリメイクしてお色直しのドレスをつくったりするのは、娘が生まれてからずっと夢だったの。着てくれなくてもいいからと思ったんだけど、着てくれたのは嬉しかった。 

ほら、私は、ずっと家の仕事が忙しくてなかなか外に出られなかったでしょう。だからこそ、中で楽しもうと思ってきたのよね。工場はもう閉じたものだから、その準備室を今は「女の部屋」にして、友達を集めて、毎週日曜日に楽しんでいます。


知枝さん:
子どもたちも、「ばあちゃんは?」って聞くと「女の部屋」って(笑)。


早苗さん:
震災で倉庫も全部壊れちゃったけど、使える布を探して全部持ってきて取ってあるんです。女の部屋には針も糸もなんでも揃っているから、「手ぶらで来て好きなものつくって」って言ってます。

縫いものしたり、編みものしたりの他の楽しみといったら、畑をやったり花を育てるくらい。やっぱり、なにかをつくるのが好きだから、今、知枝がガラス作家の仕事をしているのがすごく嬉しい。巣立ったときには、まさかこういう手仕事をやるようになるとは思っていなかったです。


知枝さん:
ガラス作家になる前は、ハンドメイドの服や雑貨をつくって販売してたんです。その頃から、手を動かしてつくることは続いています。私も最初は子育てをしながら制限もあるなかで「何かやりたい」と思って始めたんです。それがストレス発散になっていった。お母さんも私も、閉塞感があるとつくることに向かう性質なのかな。

対談後の様子

難しいからこそ深めたい ガラス作家の仕事

ーー知枝さんのお仕事について、少し深掘りさせてください。ガラス作家になる前、ハンドメイド作家としてはどのようなものをつくっていましたか。

知枝さん:
最初は、かわいい子ども服が売っていなくて、自分でつくったのが始まりです。当時、動物が描いてあるような昭和レトロな生地がレア生地になっていて。あちこちの昔からある布団屋さんを回って布を買い付けたりもしていました。

そうやって仕入れた布でつくったアイテムがだんだん評判になって、原宿をはじめとした都内のお店に委託販売していたこともあるんです。それが、「地方にいたって大丈夫、場所は関係ないんだ」と思わせてくれた原体験ですね。

東日本大震災で家が崩れたけれど、持っていた生地は引っ張り出して車に積んで避難しました。避難先でも手縫いで何かしらつくっていましたね。


ーーガラスのアクセサリーを制作するようになったきっかけは何ですか。


知枝さん:
最初は、小高でガラスアクセサリーの制作拠点「HARIO Lampwork Factory  ODAKA」ができることになって、つくり手を探していると聞いて。ちょうど子どもが小学校に上がったタイミングだったのもあるし、自分の活動の足しになればいいなという気持ちでした。布とガラスでなにかできるかも、なんて考えもありました。

でも、始めてみたらすごく奥が深くて、ガラスにはまってしまって、自然とそれ一本になっていったんです。

始めた頃は、教えてくれる先生がいないなか、数もたくさんつくらなくちゃいけなくて、大変でした。商品にできるかどうかの基準は厳しくて、手探りな部分もあったし……。でも、そうやってもがいた時期があったことが、独立した今、糧になっていると思います。

いちスタッフとしてやっているときも、自分のブランドを持ってからも、ガラスをさまざまなアクセサリーとしてかたちにできる、昨日できなかったことができるようになるってことが嬉しい。「よし!」とゲームをクリアするみたいな感覚もあります。

それに、自分がつくったものを、誰かが買って身につけてくれてるって、とても素晴らしいことだと感じるんです。


早苗さん:
普段は仕事の話はあまりしなくて、せいぜい「無理しちゃだめだよ」って声をかけるくらいなんだけど、知枝はすごいと思う。自営業っていうのは1から10まで自分でやらなくちゃいけないことを知っているから、体は大丈夫かなってお父さんと心配してるよ。


知枝さん:
たぶん、実家で親が夜中まで働いてたのを見てたからなのか、夜まで頑張るのが当たり前みたいな感覚もあるんですよね。つくるのは苦じゃないけれど、大変なのはやっぱり事務的なこと。全部ひとりでやらなくちゃいけないことの方かな。

対談の様子

支えてもらってがんばれる これからの夢


知枝さん:
子どもが小学生の間は、夏休みなどの長期休みには実家の存在にすごく助けられていました。今は自宅に併設された工房で制作していますが、独立前は通勤していたので、出勤前に実家に寄って子どもを預けていました。

私の場合は、あそこで頼れなかったら続けられなかったと強く思います。子どもたちも一緒に畑で農作業をしたり収穫したりとか楽しそうでしたし、お昼もつくってもらって。

子育てしながら働いている人も多い職場だったから、子どもの長期休みにはお休みする人もいました。でも、私は休まずに働きたいと思えるように背中を押してくれたのは、実家の存在でした。


早苗さん:
いとこたちともきょうだいみたいに育ったものね。私も孫はかわいいし、娘に頼られるのは嬉しいの。

今は子どもたちも中学生になって、独立して仕事も軌道に乗って、ちょっとは余裕が出て楽しめるようになってきたように見えるけれど……。


知枝さん:
そうだね。今の目標はギャラリーを一緒にやっている作家のchanmaruちゃんと共に、たくさんの方にガラスの魅力を知っていただくこと。彼女は幼稚園のときからの親友なんです。

それに、夫もシルバーアクセサリーづくりを始めたので、夫婦ともにがんばっていかなくちゃいけません。先が見えない状況ではありますが、少しずつ海外からの反応があることで、前向きになれています。

Instagramのダイレクトメッセージでメキシコから「ほしい」と連絡が来たり、アメリカや韓国からポップアップストアのお誘いが来たりしています。今までそんなこと考えもしなかったんですが、海外にも紹介していけるんだと思うと可能性が広がります。

今は作家として、一段上のステージに上がって名前を知ってもらえるようにがんばりたい。そのためには、作品展に出してみたいな、個展もいつか……と夢は広がっています。

対談の様子
対談の様子


普段からたくさんおしゃべりしている仲だからこそ、照れくさそうに始まった対談。母である早苗さんの一言一言は、どこを切り取っても子を思う気持ちに溢れていました。そんな早苗さんの言葉をしっかりと受け止めていた知枝さん。「いつもはかしこまった話はしないから」と言いつつ、普段からしっかり気持ちのやりとりをしているんだろうなと想像できる、素敵な母娘の姿を見せてもらいました。

今、挑戦の真っ只中にいる知枝さんの「つくる」に対する思いは、聞けば聞くほど母親譲り。趣味とはいえ、手芸に打ち込む早苗さんは同志のような存在でもあるようです。そんな特別な母の応援を受けながら、世界にも羽ばたこうとする知枝さんの姿に、勇気づけられた取材でした。

テキスト:小野民 / 写真:鈴木穣蔵

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