桜井古墳公園のあるき方(令和2年10月1日)

更新日:2024年04月01日

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馬、甲冑姿の男の子、もみじ、イチョウなどが並ぶ帯状の画像
写真1 前方後円墳(仙台市 遠見塚古墳)

一般的に「古墳」と言えば、前方後円墳をイメージする人が多いのではないでしょうか?前方後円墳は、今から1,800年ほど昔の3世紀中頃に、奈良盆地の南東付近で造られはじめたと考えられています。日本考古学では、日本列島の東北北部と沖縄諸島を除いた広い範囲で、各地の豪族が前方後円墳を造りはじめる時代を、「古墳時代」と呼んでいます。

古墳時代の前の弥生時代には、各地で様々な形や大きさの墳墓(お墓のこと)が造られましたが、古墳時代になると豪族のお墓の大部分が前方後円墳一色となり、弥生時代に各地で造られた墳墓が一斉に姿を消してしまうという現象が見られるようになります。

写真1は、仙台市若林区にある遠見(とおみ)(づか)古墳(こふん)を上空から撮影したものです。前方部と呼ぶ四角い墳丘と、後円部と呼ぶ円形の墳丘が連結して、鍵穴のような形をしている様子がよくわかりますね。

さて、桜井古墳に話を進めましょう。写真2は桜井古墳を上空から撮影した写真です。前方後円墳の形と比べると、形が異なっていることがよくわかります。前方後円墳の後円部と呼ばれる部分が、四角の形をした「前方後方墳」となっているのです。前方後方墳もまた古墳時代に造られた古墳の種類のうちのひとつです。 桜井古墳は長さが74.5m、後方部の高さが6.8mを計測する、堂々たる大きさの古墳です。東北地方で桜井古墳の大きさを上回る前方後方墳は、田中舟森山古墳(福島県喜多方市)、大安場古墳(福島県郡山市)、天神森古墳(山形県天童市)の3基しかありません。

写真2 桜井古墳

現在は、発掘調査の成果を以て桜井古墳が造られた当時の姿に復元されて、桜井古墳公園として親しまれています。桜井古墳公園を訪れたことのある方は、目の前にそびえる大きな墳丘を実感されたかと思いますが、実は桜井古墳を復元するときに、所々に「ちょこっと」した仕掛けが加えられていたことに気づいた方は少ないでしょう。

今回の「ちょこっと☆ミュージアムー桜井古墳公園のあるき方ー」では、その桜井古墳の「ちょこっと」した仕掛けについて紹介いたします。

写真3 Check1(周溝が途切れた土橋の部分)

まずは、写真3に示した前方部南側前端のCheck1に注目しましょう。桜井古墳の墳丘の周囲には大きな溝((しゅう)(こう)といいます)が掘られていました。墳丘の周囲を掘った土を内側に積み上げることで大きな墳丘を築いていますが、Check1に示した部分だけは、溝が掘られずに土の橋のように周溝が途切れていました。なぜ、この部分だけが周溝が掘られずに土橋(どばし)となっていたのでしょうか?

その答えは、桜井古墳に埋葬された棺と大きな関係があります。古墳時代初めの頃の棺は、直径1m前後の大木を切り出し、長さ7~10mの丸太を用意します。次に丸太を縦に割って半円形の木材を2本作ります。この半円形の木材のなかをくり抜き、丸木舟のような用材を2本作り、ひとつは主の遺骸を葬る棺身とし、残る木材を棺蓋として棺身の上に被せます。その姿はあたかもフシのある竹を割った様子に似ていることから「(わり)竹形(たけかた)木棺(もっかん)」と呼ばれています。直径約1m、長さ7mを超える長大な割竹形木棺の重量は相当なものであったでしょう。このような重量のある棺を、深い周溝を降りて再び古墳の頂上に上げることは不可能であったと思います。そのために意図的に周溝を掘らずに棺を古墳の頂上に上げるために平坦な「道」となる土橋を準備していたのです。棺は古墳へと運ぶための土橋を通り、その延長線上にある前方部南側前端の傾斜の緩やかな前方部の稜線を伝って前方部の頂上に運んだものと考えられます。

前方部の墳頂平坦面は緩やかな下り坂となっており、棺を運ぶのには大きな支障はありませんが、後方部に接する地点で下り坂が後方部の急傾斜の墳丘に達し、再び棺の運搬が難しくなります。

そこで登場するのが写真4に示したCheck2のポイントです。Check2の部分には後方部墳頂平坦面に築かれた大きな墓穴(墓壙(ぼこう)と言います。)の底まで伸びる緩やかな上り坂となっています。棺はこの隆起(りゅうき)(しゃ)(どう)(盛り上がった坂道という意味。)と呼ばれる緩やかな坂道の上を運ばれ、後方部墳頂平坦面に掘られた墓壙へと到達します。また隆起斜道と墓壙の間を繋ぐために、()(どう)と呼ばれる通路が築かれていることも判明しました。整備された桜井古墳後方部の階段が北側にずれたように設計したのも隆起斜道と墓道の関係を表現するためです。

写真4 隆起斜道と墓道

後方部の墓壙に安置された棺は、葬送(そうそう)儀礼(ぎれい)という一連の儀式が執り行われたのち、丁寧に埋められます。埋め戻された墓壙の頂上には、底に穴の開いた底部(ていぶ)穿孔(せんこう)二重(にじゅう)(こう)(えん)(つぼ)を配置して埋葬の各作業が終了します。

残念ながら、桜井古墳の発掘調査では棺の調査は行わずに、将来にわたって保存することとなりましたが、後方部の墳頂平坦面の観察では、2基の棺が存在していることが判明しています。この2人の関係はどのようなものだったのでしょうか?今もなお桜井古墳に秘められた大きな謎となっています。

このように、古墳の形を復元するにとどまらず、主の棺を埋葬する人々の動きまでを復元した古墳は、全国各地の古墳を探しても、おそらくは桜井古墳以外には無いと言って良いでしょう。今回は、桜井古墳公園をこれまで以上に楽しんでもらえるように、桜井古墳の「ちょこっと」した工夫を紹介しました。このあとは、お友達やご家族を連れて、桜井古墳公園を訪れてみてはいかがですか?

(荒 淑人)

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