渋沢栄一の孫 敬三と民具(令和4年3月1日)

昨年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」は、官僚・実業家として日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一の伝記でしたね。ドラマの終盤に登場した栄一の孫、敬三を覚えていますか。
渋沢敬三(明治29年~昭和38年/1896~1963)は当初動物学者を志していましたが、敬三に期待する栄一から跡取りとして横浜正金銀行を継ぐよう懇願され、仙台の第二高等学校英法科、東京帝国大学経済学部に進学。卒業後は横浜正金銀行に入行しました。第二次大戦中から戦後にかけては、日銀総裁や大蔵大臣等の要職を務めた官僚・実業家の経済人です。
一方、敬三は民俗学・民族学者としても活躍した文化人でもあります。敬三は動植物の標本収集に熱中していたことに加え、民俗学者柳田国男との出会いもあって民俗学にも傾倒しました。大正10年(1921)、現在の東京都港区三田にあった自邸の物置小屋の屋根裏に動植物の標本・化石・郷土玩具などを収集する博物館を開き、アチック・ミューゼアム・ソサエティという会を創設しました。敬三とメンバーたちはこの屋根裏博物館で郷土玩具の研究を始めました。大正13年(1924)、敬三はロンドン滞在中にヨーロッパ各地の民族博物館を見聞して博物館への強い想いを抱きました。大正14年(1925)には会の名称をアチック・ミューゼアムと変えて、収集対象を郷土玩具から民具(日常生活から生まれた身近な道具)全般へと広げました。昭和9年(1934)には日本民族学会を設立、昭和12年(1937)には現在の東京都西東京市保谷町にアチック・ミューゼアムの資料を移した民族学博物館を開設しました。敬三は漁民の生活史・漁業史などで多くの著作を残し、昭和15年(1940)に日本農学賞を受賞しています。第二次大戦中の昭和17年(1942)にはアチック・ミューゼアムを日本常民文化研究所と改称し、戦前戦後を通じて多くの民俗学者を育て、莫大な資金援助を行いました。
敬三の没後、民族学博物館の資料は昭和52年(1977)に開館した大阪の国立民族学博物館の母体資料となり、水産関係の文書資料は国文学研究資料館に移管されました。日本常民文化研究所は神奈川大学に移され、令和3年(2021)にアチック以来創立100年を迎えました。こうして、敬三による歴史・民俗文化の研究は今の時代まで継承されています。

「アチック手拭」の図柄(風呂鍬)
『神奈川大学日本常民文化研究所 2021-2023 要覧』より転載
アチック・ミューゼアムが昭和10年代に民具収集の返礼品とした手拭には、さまざまな民具の図柄が描かれていた。

風呂鍬
南相馬市博物館 蔵
鍬は代表的な農耕具で、土の掘り起こし、除草、芋掘りなどに使われた。風呂鍬は、木製の台(風呂)に鉄の刃がついたもの。
この風呂鍬は、江戸時代に中村藩が導入した報徳仕法で、表彰された農民にほうびとして与えられた。
昭和40年代(1960年代後半)の高度経済成長期頃から、生活文化や生活用具の急激な変化と民具の消滅を危惧する考えが高まったことで、全国で民具の収集が盛んになり、多くの自治体で資料館・博物館が設置されました。
当時の小高町・鹿島町・原町市でもそれぞれ民具を収集し、昭和56年(1981)に鹿島歴史民俗資料館(鹿島町)、平成7年(1995)に野馬追の里歴史民俗資料館(原町市)が開館しました。その後、平成18年(2006)に3市町合併で南相馬市が誕生。鹿島歴史民俗資料館は平成23年(2011)に東日本大震災の被災で休館、平成25年(2013)廃館という道を歩みました。3市町で収蔵していた民具は、現在、南相馬市博物館に引き継がれています。
(二本松 文雄)

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更新日:2024年04月01日