酉年(とりどし)の正月を言祝(ことほ)ぐ(平成29年2月1日)

正月を言祝ぐ
喜びやめでたい言葉でお祝いすることを、古くからのことばで言祝ぐ・寿ぐ(ことほぐ)といいます。正月は年中行事の中で最も重視されてきた祝い事で、古くから正月を言祝ぐいろいろな行事が行われてきました。
正月に系図を読む
鎌倉時代末から江戸時代末まで相馬地方から双葉地方北部を治めた大名、奥州相馬氏の史書といえる『奥相茶話記』[寛文7年(1667)、中津朝睡(中村藩の右筆)著]の序説には、相馬氏の重臣で、相馬家の系図を預かる目々沢(めめざわ)氏(本名:木幡氏)の屋敷内の小屋に住む老祈祷師の話が紹介されています。この中で、目々沢氏は平将門の子孫とされる信太小太郎の家臣浮島太夫の後裔と伝えられています。そこには、相馬家の当主が1年に1度正月三が日の間に目々沢家に赴いて系図を拝見したと書かれています。文面の解釈に難しいところがありますが、目々沢氏または祈祷師が相馬家の当主に正月を言祝ぎ、相馬家の歴史と戦国時代の先祖の武勇伝を語り伝えたと思われます。

目々沢舘跡
万歳
江戸時代から昭和時代前期にかけて、庶民の間にも親しまれた万歳は、正月などに家々を訪れ、めでたい言葉を語って祝う門付け芸の一つでした。
小高区井田川字北新田には、干拓地の入植者で、初波太夫(はつなみだゆう)を名乗った会津万歳の系統をひく人がいました。12月から3月にかけて近隣の各地をまわり、門付をしましたが、後には催しなどで演じるようになりました。演目は、年始に行われる「年祝」「年神様」「七福(神)」のほかさまざまなレパートリーがありました。

井田川の万歳(まんざい)
酉・鳥にまつわるあれこれ
今回は酉年にちなんで、南相馬市の酉や鳥にまつわるお祭りや伝説なを紹介します。
鴛鴦伝説(えんのうでんせつ)
小高区小谷字門前には夫婦仲の良いオシドリにまつわる悲しい伝説があります。
昔、相馬重胤が奥州下向してきた頃(鎌倉時代)、小谷の沼で猟師が雄(オス)のオシドリ(鴛)を射て首を断ち、次の年に雌(メス)のオシドリ(鴦)を射たが、メスは前の年の雄の首を翼に挟めて大事に抱えていました。猟師はオシドリ夫婦の情け深いことを知り、供養のために庵を建て、後には相馬高胤もこれに感じて寺を立て、豊池山鴛鴦寺(えんのうじ)と名付けたという伝説です。鴛鴦寺は後に圓應寺と書くようになり、相馬の中村に遷りました。このような伝説は全国的に分布していて、鴛鴦伝説といいます。

鴛鴦寺跡
鶏足神社(けいそくじんじゃ)の浜下り
鹿島区北海老の鶏足(けいそく)神社では、12年に1度の酉年3月下旬に浜下りのお祭り(鶏足神社御遷宮)が行われます。この日は、鶏足神社に伝わる神楽をはじめ、北海老・南海老の子供たちによる手踊、北海老万作踊を奉納した後、北海老・南海老地区内の立場(たてば。建場とも書く。神輿を休ませて、踊りを奉納する場所)を数か所巡りながら、海老海岸まで下がり、海に入って潮水を汲み、御神体に奉納します。12年間、地域を守ってくれた神に感謝し、神の霊力を高めて再び神社に戻るという神事です。この日は地域の人々が集い、地域の結束を確認する場でもあります。東日本大震災の津波で大きな被害にあったこの地区の人々の絆が再確認される事でしょう。

鶏足神社の浜下り
金鶏伝説(きんけいでんせつ)
原町区馬場の山中にある五台山(ごだいさん)は、重い病にかかった相馬重胤隠棲の地として知られ、五台山周辺では深山幽谷の地形から、いくつかの伝説が伝わっています。
五台山の麓の川では、漁師がいつも懐に入れて大切にしていた金の鶏のお守りを川の中に落としてしまったといいます。それから数年後、美しい声で時を告げる鶏の声が川の底から聞こえてきたといいます。そして、この鳴き声と人家で飼っている鶏が鳴き合わせると、決まって飼っている鶏が死んでしまい、このあたりでは鶏は飼わないといいます。
また、重胤の正妻が入水自殺したという伝説のある傾城淵(けいせいぶち)を、「鶏声淵」(けいせいぶち)ともいいます。
五台山の山頂近くに重胤の隠棲地といわれる所があります。その近くには金の鶏が埋められたということで、掘り返したような大きな窪地があります。

五台山
(二本松 文雄)

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更新日:2024年04月01日