苦難の時代の野馬追(1)天保の飢饉と明治維新(令和2年6月1日)

更新日:2024年04月01日

馬、甲冑姿の男の子、かたつむり、雨傘、長靴、黄色のバラなどが並ぶ帯状の画像

新型コロナという脅威が世界を席巻しているなか、今年の相馬野馬追は大部分の行事を中止し、最小限の行事を関係者のみで実施することが決まりました。豪華な時代絵巻を見られないのは残念な気もしますが、命を守るための決断として厳粛に受け止めたいと思います。

じつは、今年のように世の中が苦難におちいり野馬追の開催が危ぶまれたことは、歴史のなかで何度かありました。そんな中でも我々の先祖たちは、それぞれの時代で工夫をしながら野馬追を継続してきました。

野馬追の規模縮小が発表された5月の相馬野馬追執行委員会の記者会見資料のなかで、「飢饉や明治維新時の『省略野馬追』の例に倣い最小限の行事のみ実施する」とありました。飢饉で疲弊した時期、そして日本が大変革に揺れた時期の「省略野馬追」とはいかなる行事だったのでしょう。ここでは約190年前に起こった「天保の飢饉」と、約150年前の「明治維新」のときの省略野馬追を振り返ってみましょう。

天保の飢饉の「省略野馬追」

天保の飢饉(天保4年・1833)のとき、中村藩は凶作の兆しが見え始めたころから対応準備に取りかかり、江戸から米などを買い入れて武士・農民らに支給していたので、領民たちの餓死は防ぐことができました。しかし、藩の財政は極めて苦しい状況になってしまいました。

そこで飢饉の翌年(天保5年・1834)に開催したのが、費用も人数もかけない「省略野馬追」と呼ばれるもので、おおよそ以下のような内容でした(『相馬藩世紀』天保5年5月14日の条を参考)。

①使う旗は藩主相馬家の「黒地に日の丸の大旗」と「五色の旗」だけ。

②参加者は藩主の代わりに相馬家一門衆から名代が1騎、中目付(軍者を兼務)が1騎、祭場がある原町近隣の郷士(身分の低い武士)が10騎。

③祭場ではお神酒をいただいて、他の行事は行わない。

④野馬懸は「上げ野馬の神事(神馬の奉納)」だけ開催。

この省略野馬追はその後も何度か行われ、年ごとに内容の違いはあるものの、天保9年(1838)ないしは10年(1839)までの約5年間継続されました。大幅に規模を縮小することで飢饉の財政難を乗り切ろうとしたのです。

天保5年の省略野馬追の行列の様子のイメージ

天保5年(1834)の「省略野馬追」のイメージ

天保の飢饉翌年の野馬追は、全部合わせてこれくらいの出馬者しかいませんでした。いでたちは藩主の名代1騎だけ甲冑、他は陣羽織だったそうです。

明治維新の「省略野馬追」-飢饉の野馬追にならって-

江戸時代末期の幕府の倒幕運動から明治時代初期までに起こった大変革「明治維新」のとき、日本国内は大変混乱しました。相馬地方でもっとも混乱したのは、慶応4年(明治元年・1868)明治新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争のときです。

同年1月、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争の戦火は、(うるう)4月に東北最南部の白河(白河市)におよびましたが、その1か月後が野馬追の日だったのです。新政府軍の侵攻はまだ中村藩におよんでいなかったとはいえ、いつ戦火に巻き込まれてもおかしくない状況の中、藩主相馬家は天保8年(1837)の省略野馬追にならって、おおよそ以下のような内容で最小限の野馬追を開催しました(『相馬藩世紀』慶応4年5月7日の条を参考)。

①使う旗は「黒地に日の丸の大旗」と「五色の旗」だけ

②参加者は藩主の代わりに相馬家一門衆から名代が1騎だけ

③野馬懸は「上げ野馬の神事」だけ開催

野馬追終了から約2か月後、同年7月~8月に新政府軍が中村藩領内に進攻、旧幕府軍として新政府軍と戦った中村藩は降伏することになりますが、混乱した情勢の中にあっても、飢饉のときの省略野馬追を踏襲することで野馬追は中断されることなく継続したのです。その後、国内がなにかと落ち着かない状況ではありましたが、明治4年(1871)7月の「廃藩置県」まで、相馬家の武家行事として省略野馬追は続けられました。

野馬追消滅の危機-武家行事から神社の神事へ-

明治5年(1872)の『御野馬追之次第』の文書の該当部分に赤線が引かれたもの

明治5年(1872)の『御野馬追之次第』

(個人蔵)

赤線部に「世の大変革があって野馬追も従来通りできなくなってしまったが、形だけでも残したい(意訳)」と記されています。

明治4年の廃藩置県は、明治政府が幕藩体制の影響を完全に消し中央集権国家とするため、文字通り「藩を廃して代わりに県を置く」大改革でした。

数百年のあいだ野馬追を続けてきた相馬家も、藩主としての力を失い、華族という貴族階級になったため、相馬家主催の武家行事・野馬追は消滅の危機を迎えました。そこで廃藩置県の翌5年(1872)には太田神社の神事として再生することで、野馬追は消滅の危機をまぬがれたのです。

武家行事から神社の神事に替わった経過はよくわかっていません。しかし、当時の人々が野馬追に「形だけでも残したい」(『御野馬追之次第』)と強い思い入れを持って明治政府と交渉し、野馬追が生き残る道を探ったのは間違いないでしょう。彼らの思いがなければ、私たちは野馬追を見ることができなかったかもしれません。

こうして神社の行事になって以降、身分にこだわらず一般庶民でも参加が許され、神輿の行列や神旗争奪戦などがはじまり、私たちになじみのある野馬追が出来上がっていくのです。

今も昔も「上げ野馬の神事」が大事

白装束の男性5,6人が馬を捕まえて塩を食べさせているところ

神馬を奉納する「上げ野馬の神事」

今も昔も野馬追行事の中で最も大切な行事です。相馬地方の繁栄と安寧を祈願します。

飢饉でも明治維新でも、大幅に内容を省略したとはいいながら、一貫してずっと行われていたのが、最終日の「上げ野馬の神事」です。これは小高妙見社(相馬小高神社)に神馬を奉納する儀式。私たちが願いを込めて納める絵馬奉納の原風景に通じる行事です。

相馬地方を治めた歴代の殿様たちは、世が穏やかで、領内が繁栄すること、領民たちが幸せであることを祈って神馬を奉納していました。勇壮な祭礼として知られる野馬追ですが、その真髄は戦いではなく、相馬地方と人々を思いやる心なのです。飢饉でも明治維新でも上げ野馬の神事を欠かさなかったのは、まさに苦難の時代だったからこそ、神馬に願いを託して人々の幸せを祈ったからに違いありません。

今年の野馬追でも、上げ野馬の神事は欠かさずに行われることになりました。相馬地方の繁栄と安寧、そして震災・原発事故からの復興を祈願するとともに、新型コロナ終息の願いも込めて神馬が奉納されることでしょう。野馬追の真髄をあらためて強く実感する年になりそうです。

(二上 文彦)

馬、甲冑姿の男の子、かたつむり、雨傘、長靴、黄色のバラなどが並ぶ帯状の画像

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