野馬追が行われた「五月中の申」の日っていつ…?(令和6年5月1日)
相馬地方の真夏の風物詩として、毎年7月に開催されてきた国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」は、今年、令和6年(2024)から開催日程が5月最終土・日・月曜日に変更され、初夏の行事として新たな歴史を刻むことになりました。
ところで、野馬追に欠かせない民謡として「相馬流れ山」がありますが、
五月中の申 御野馬追
という一節があるのはご存知でしょうか。
かつての野馬追は、この一節のとおり「五月中の申の日」を中心に3日間行われていました。ということは、昔とまったく同じ5月に変更になったのか…というと、そうではありません。
では、昔の野馬追の日「五月中の申」とはいつなのでしょう。今回はその日程についてご紹介します。
「五月中の申」=旧暦五月の2回目の申の日
昔の野馬追は「旧暦(太陰太陽暦)」の五月に行われていました。つまり今のカレンダー(新暦、太陽暦)の5月とは違うのです。旧暦とは、新暦になった明治6年(1873)より前に使われていた暦で、今とちがって月の満ち欠けで計算するので、1か月がおよそ29日でした。旧暦のほうが新暦より1か月くらい早い、というイメージです。
では「中の申の日」はいつなのでしょう。「申」は十二支の申(猿)のことですから、ひと月に申の日は2~3回ある計算になります。「中の申」はそのうちの「2回目の申の日」という意味です(1回目が「初」、2回目が「中」、3回目が「晩」)。つまり「五月中の申」は、「五月の2回目の申」の日をさします。江戸時代の野馬追は、五月中の未の日に「御繰り出し、宵乗」、中の申の日に「野馬追」、中の酉の日に「野馬懸」という日程で、この3日間の行程が今の野馬追のベースとなっています。
ちなみに今年・令和6年(2024)の旧暦五月中の申の日は、新暦で6月25日のようです(下図参照)。
ということで、旧暦五月中の申の日は、新暦でいえば6月下旬から7月上旬あたりだったのですが、明治6年(1843)、政府が暦を旧暦から新暦に改めたとき、野馬追は翌7年(1874)から同年の旧暦五月中の申の日にあたった7月2日に行われ、以降7月の行事となったわけです。
なぜ「五月中の申」だった・・・? 猿は馬の守り神だから
江戸時代の野馬追が「毎年五月中の申」の日に行われていたことを示す野馬追絵図
ところで、江戸時代の野馬追の日はなぜ「五月中の申」だったのでしょう。野馬追を継承してきた中村藩主相馬家の伝説をまとめた「相家故事秘要集」(旧『相馬市史6』翻刻版)によれば、おおよそ下記のようないわれが記されています。
- 旧暦5月は別名「午の月」だから
- 猿(申)は馬(午)の守り神といわれているから
昔から、馬は人間にとって大切な生きものとして扱われ、人間を守る神と同じように、馬を守る「厩神」の信仰がありました。厩神の多くは猿で、鎌倉時代の「石山寺縁起絵巻」(厩につながれた猿が描かれる)や、馬小屋に猿の頭蓋骨や手の骨を祀って、馬の健康などを祈願する「厩猿」の風習、日光東照宮の神厩舎の三猿の彫刻などにも見ることができますが、野馬追の日程にも、「馬の守り神としての猿」が大きく関わっていたということになります。
「五月中の申」という過去の野馬追の日程には、馬を大切に思う気持ちが込められていたのかもしれません。思えば、今年から5月に変更になったのは、近年の酷暑により、馬や人への重大な健康被害が懸念されることが大きな理由でした。昨年の野馬追では、残念ながら2頭の馬の尊い命が失われてしまいましたが、その悲劇を忘れず、馬を大切に思う気持ちをもって、馬も人も健やかにのぞめる行事として、今後も末永く継続してほしいと思います。
(二上 文彦)
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更新日:2024年05月01日