半谷清寿・六郎と桜 ―浜通りの桜の名所を作った人―(令和2年4月1日)

更新日:2024年04月01日

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馬、甲冑姿の男の子、桜、くま、うさぎ、いちご、たんぽぽの綿毛などが並ぶ帯状の画像

桜の季節なのに今年は新型コロナウイルスの影響で、花見も自粛ムードで盛り上がりに欠けますね。

さて、今回は南相馬の人物と地元の桜の名所の関係を紹介します。

半谷清寿・六郎

半谷(はんがい)(せい)寿(じゅ)は明治から昭和初期に活躍した小高(南相馬市小高区)の実践の思想家です。彼は著書『将来の東北』などで殖産興業と近代化を唱え、相双地方の近代産業発展に多くの芽を残しました。代表例として、小高の織物業の始まりとなった「相馬織物会社」、夜の森(富岡町)の原野を開拓した「夜の森農園」、ガラス・試験用セメント原料となる珪砂を採掘した「小高銀砂工場」「山一サンド」などがあげられます。

半谷六郎は半谷清寿の二男で、父とともに夜の森の開拓にあたり、後に富岡町町長として町の発展に努めました。

飯崎のしだれ桜(南相馬市小高区)[南相馬市指定天然記念物]

飯崎のしだれ桜 菜の花畑の後ろに大きなしだれ桜が写っている

飯崎のしだれ桜

慶応4年(1868)、戊辰戦争で降伏した中村藩は新政府軍に組み込まれ、第一線となって仙台藩と戦いました。駒ヶ嶺(新地町)の戦いでは、小浜村(原町区)の鈴木清八らが捕らえられて斬首されました。清八の死後、叔父にあたる大井(小高区)の半谷新右衛門(半谷清寿の姉の夫)らが仙台の釈迦堂(榴岡の宮城県公文書館の地。建物は孝勝寺に移築。)の僧に当時の状況を聞きに行き、遺品を求めたが分からず、清八の形見として「仙台しだれ桜」の苗木を求めて半谷家の庭に植えたそうです。清寿は実家のこの桜を見ていたことでしょう。

釈迦堂は、伊達騒動に巻き込まれた伊達綱村の命を守ろうとした生母三沢初子の冥福を祈り、綱村が建立した仏堂です。隣接する馬場(現在の榴岡公園)には京都から取り寄せた桜苗1000本を植え、「四民遊覧」の地(あらゆる階層の人が観覧を楽しめる場)とし、現在も桜の名所として親しまれています。

その後、「仙台しだれ桜」は仙台に葬られた清八のいとこ鈴木重助の妻キイ[明治31年(1898)没]の墓印として新右衛門らが飯崎に植え替えたと考えられています。これが現在の「飯崎(はんさき)のしだれ桜」です。

小高川の桜(南相馬市小高区)

小高川の桜 河川岸に桜が咲いているところ

小高川の桜

清寿は幼少の時、南新田村(南相馬市原町区)の佐藤太之助のもとに家事見習いとして寄寓した時期がありました。太之助は、近世末以来、山林の積極的な利用を計り、安政元年(1854)以降、40余年に渡って苗木育成のため自身の土地に20万本以上植林して、県下第一の植林家といわれた人です。

太之助は原町西方から馬場の入り口まで約5キロメートルの道沿いに桜を植え、手助けした清寿は太之助の遠大な心意気に感銘したそうです。大人になった清寿はその時の感銘を実現しようと、仙台釈迦堂のしだれ桜の苗木数百本を求め、明治27年(1894)小高川の堤防両岸に植樹しました。

しかし、しだれ桜の風雅な姿は見られず、桜の植樹は荒廃と辛苦に終わりました。明治後期から昭和初期の小高は度々大洪水に見舞われており、堤防決壊や苗木の流失があったのかもしれません。

昭和8年から9年、県が小高川の河川改修工事を行い、地元住民も工事に携わりました。現在の桜は、工事を担当した県技師の助言で、翌10年に工事に携わった地元住民が植えたものです。

夜の森の桜(富岡町)

夜の森の桜並木の様子

夜の森の桜並木

明治33年(1900)、清寿は新しい村づくりに理想を求めて夜の森開拓に取り組み、入植記念として宅地周辺にソメイヨシノ300本を植樹しました(現存せず)。明治43年(1910)、清寿の下で息子六郎が夜の森の敷地内1.5キロメートルの道の両側にソメイヨシノ300本を植樹しました(通称、100年桜・桜通り)。昭和元年(1926)には苗木商飯塚六郎からソメイヨシノ100本が、その後、但野芳美から八重桜100本が寄贈され、また有志によりソメイヨシノ12000本が植えられました。こうして、夜の森の開拓事業は結果的に名所作りにもつながり、浜通りの代表的な桜の名所となりました。

時代背景としての東宮行幸の桜

明治41年(1908)9月から10月、皇太子(後の大正天皇)の東北巡啓があり、10月9日に富岡に宿泊されたのを記念して、明治42年(1909)に町が小浜に行啓記念公園を整備し、桜300本・梅200本を植樹しました。

この頃、皇太子の結婚[明治33年(1900)]に伴い、全国各地で様々な行事と桜の記念植樹がありました。青森県弘前公園のソメイヨシノの植樹は、弘前市議会での皇太子結婚記念植樹の建議が発端とされています。皇太子が全国を巡啓するようになると、その途上でも桜や松が植えられるようになり、ナショナルシンボルとしての桜のイメージが広まってきたことも時代背景として注目されます。

令和2年(2020)3月10日、夜の森駅前が原発事故による帰還困難区域から先行解除され、桜並木の一部が通行可能になりました。除染と復興が加速して、バリケードで分断されていない桜のトンネルを歩きたいですね。

(二本松 文雄)

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