鮭川の道標 (令和6年12月1日)

南相馬市内には数多くの石碑があり、大きいものでは3メートルを超え、小さいものでは50センチメートル程度と大きさはさまざまです。それらの石碑に刻まれている内容は、信仰や供養、慰霊に関するもの、土地改良や耕地整理、神社仏閣の改修の記念に関するものなど、さまざまにあります。
日常で目にする機会が多い石碑ですが、どのような内容が刻まれているのか、石碑を調べる機会は少ないかもしれません。石碑には篆書や旧字体、異体字などの難解な文字も多く、さらに漢文調の文章を読み解くことはかなりむずかしいといえますが、詳細に調べるとその石碑が立っている地域の歴史を知ることができます。
今回の「ちょこっと☆みゅーじあむ」では、それらの石碑のなかから「鮭川の道標」について紹介します。
鮭川の道標の概要
道標とは、通行人に目的地の距離や方向などを伝えるために立てられた石碑で「道しるべ」ともいい、多くは道路沿いや道路が分岐するところに立てられています。
鮭川の道標と呼ばれる石碑は原町区内に2基が確認されていて、1つは桜井町二丁目、もう1つは高見町二丁目に立っています。どちらも明治43年(1910)10月の年代が刻まれています。

鮭川の道標の位置(国土地理院地図を加工して作成)
主要地方道原町・川俣線から桜井町二丁目で分岐する道路沿いに立つこの道標には、真ん中に「鮭川」、左右には「右車道」「左近道」と刻まれています。石碑の下部に「発起人」とありますが、残念ながら発起人の名前はアスファルトの下に埋もれてしまっています。アスファルト舗装される前の写真を確認すると、4人の名前が刻まれていて、後述する高見町二丁目の道標と同じ人物の名前が刻まれていました。

鮭川の道標(桜井町二丁目)左:令和6年撮影、右:平成19年撮影
鮭川の道標(高見町二丁目)
もうひとつの道標は、主要地方道原町・川俣線から国道6号線を越えた県道下渋佐・南新田線の道路沿い(南相馬市立総合病院の東側)の高見町二丁目地内に立っています。真ん中に「右萱浜道」「左鮭川道」と2行で刻まれています。そして、中央部には「発起人」、その下に「今野庄太郎 紺野伊之助 前田伊八 佐藤浅治」と4人の名前が刻まれています。
明治時代から大正時代の「原町会議事録」、大正7年(1918)刊行の『相馬原町案内』によると、今野庄太郎は大正時代後半に原町内の行政区の区長を務め、前田伊八は原ノ町駅前の旅館「花月館丸屋」の経営者、佐藤浅治は明治40年代に原町尋常小学校(現在の原町第一小学校)に備品として「掛物一幅」を寄付していました。彼らは、 地元の名士といえる人物だったといえます。紺野伊之助については確認できませんでしたが、上記の3人と同じような立場にあったと考えられます。
観光地としての鮭川と道標
さて、そもそも鮭川とは原町区を東流する新田川のことであり、東日本大震災以前は毎年10月から11月にかけて鮭漁が盛んに行われていました(註1)。
石碑が立てられた年代と同じころの明治42年(1909)10月27日付『福島新聞』は「一網千尾捕ふるは敢て珍とするに足らず」と、一網で1000尾が捕れるのも珍しくないと報じています。そして、多くの観光客が見物に訪れ、鮭尽くしの料理を楽しんでいたようです。また、この時は仙台から東京までの新聞記者や福島運輸事務所管内の各駅長を招待して見学会を開き、新田川の鮭漁を観光資源としてPRしていました。

『相馬原町案内』(大正7年 海岸タイムス社)で紹介される鮭川の賑わい
新田川の鮭漁が観光地として知られていたと考えると、桜井町二丁目の道標の「近道」とは観光客が鮭漁見物に行くための近道を指していると考えられます。それでは、「右車道」とは何でしょうか。
先ほど紹介した『福島新聞』には「原ノ町より二十町許りの道路坦々として人力車を通す、近時仙台、水戸、福島等遠隔の地より来観するもの少なからす」と記されています。鮭漁の季節には常磐線を利用して仙台や水戸方面から原ノ町駅に来た観光客は、駅から鮭川までの道は人力車を利用していたということです。つまり、この人力車が通る道が「車道」だと考えられます(註2)。
そして、車道を進んだ先に高見町二丁目の道標があります。「右萱浜道」「左鮭川道」とは右(南)に進むと原町区萱浜地区に至り、左(北)に進むと鮭川に行くことができ、鮭川への道を案内していることがわかります(註3)。
原ノ町駅に到着した観光客は、この道標を目印に鮭川に向かったと考えられます。つまり、これらの鮭川の道標は、明治末期の観光案内版ということができます。
鮭川の道標は高さ約50センチメートルほどの小さな石碑です。この小さな道標を調べてみると、原町地域の名物といえる鮭漁をはじめ、当時の観光や交通など、さまざまな歴史を私たちに伝えてくれることがわかります。
むすびに
石碑に刻まれている内容を読み解き、その内容を調べていくと、日本史の教科書には載っていないその地域ならではの歴史を知ることができます。石碑に刻まれている内容をきっかけに調べていくと、より深く地域の歴史を知ることができると思います。
日常生活のなかで、石碑を目にする機会はたくさんあります。そこに何が刻まれているのか、足をとめて調べてみると地域の意外な歴史を知ることができるかもしれませんので、ぜひ調べてみてください。
(註1)東日本大震災後の中断と再開を経た新田川の鮭漁は、ここ数年は遡上する鮭が激減しています。今回紹介した鮭川の道標を目印に、再び多くの人たちが鮭川を訪れることを願っています。
(註2)現在、主要地方道原町・川俣線には常磐線をまたぐ跨線橋が架かっています。この跨線橋は昭和45年(1970)3月に完成したもので、それ以前は跨線橋の少し南に渋佐踏切と呼ばれた踏切がありました。この渋佐踏切から東に延びる道路は、福島県南相馬合同庁舎の北側の道路を通り、この道路が桜井町二丁目の道標の辺りにつながっていたようです。
(註3)現在、高見町二丁目の道標の北には南相馬消防署、南には住宅が拡がっているため、まっすぐ鮭川や萱浜地区に行くことはできません。道標が移動した可能性もあるので、道路の拡張など都市開発を踏まえて調べる必要があります。
(森 晃洋)

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更新日:2024年12月01日