薬師堂石仏の調査成果(前編)(令和8年2月1日)

小高区泉沢には、「大悲山の石仏」と総称される、平安時代の磨崖仏(岩に彫刻した仏像)があります。「大悲山の石仏」は、薬師堂石仏・阿弥陀堂石仏・観音堂石仏と呼ばれる3つの岩窟からなります。このうち観音堂石仏と阿弥陀堂石仏は、東日本大震災による被害などをきっかけに、近年、石仏を風雨などから保護する覆屋が、新しく建て直されました。一方、薬師堂石仏は、昭和28年(1953)に建設された覆屋によって今も守られていますが、建物の老朽化が進んでいます。このため、石仏を将来にわたって保存する方法を検討し、覆屋の増改築など整備を加える計画を立てることが必要となりました。古い磨崖仏が存在することから、この場所は遺跡であり、古い時代の遺構・遺物が、地下に埋もれている可能性があります(「埋蔵文化財」といいます)。整備計画を立てるにあたっては、磨崖仏を保存するだけでなく、埋蔵文化財の存在にも配慮する必要があります。そこで、薬師堂石仏の周りにどのような埋蔵文化財が存在するのかを調べるため、発掘調査を行うことになりました。
薬師堂全景
発掘調査は、令和7年(2025)10月~同8年(2026)1月までの3か月にわたって実施しました。
私が専門とする考古学は、モノ(=遺跡・遺物)から、コト(歴史=人類の過去の生活ないし文化の変遷)を明らかにする歴史学の一分野です。そして考古学では、発掘調査は歴史を明らかにするための重要な手段です。
「ちょこっと☆みゅーじあむ」では、この発掘調査の成果について、2回に分けて紹介します。今回は、発掘調査で何が見つかったのか、そこからどんなことが分かるのか、について説明します。なお、次回は発掘調査で分かったことから一歩踏み込んで、「大悲山の石仏」の歴史の一端に迫ってみたいと思います。
①現在の覆屋にともなって整備された参道の跡
参道に伴う整地跡
私たちの足元の地面は、時間の経過とともに、古い地層の上に新しい地層が積み重なってできています。発掘調査では、上から順に土を掘っていきますので、ごく最近にできた新しい地層から掘り進め、徐々に古い時代に堆積した地層へとたどり着きます。まずは、新しい時代から古い時代へと、発掘調査の順を追って説明します。
まず、覆屋の前面中央に設けた調査区では、地表面から下20センチメートルのところまで、黄褐色の砂質土を敷いて均した整地土や、その表面に丸石を敷いて舗装した跡、舗装の表面に雨水などによって自然に運ばれた土砂などが、薄い層状に重なって、幾重にも堆積していました。覆屋の前面で土を均し、その上に自然の土砂が堆積し、その上でまた整地が行われる、といったことが繰り返されたことが分かります。整地は、石仏のある平場へと至る石段の方から覆屋の正面へと延びていて、とくに入念な整地が確認できる範囲は、現在の覆屋の屋根に設けられた向拝の幅とおおむね一致していることも分かりました。向拝とは、お堂の入口の前に立って礼拝する参詣者が雨に濡れたりしないように、お堂の軒先の中央部が前方に張り出した部分のことです。参詣者が、まっすぐお堂の前に進めるように、石仏へ向かう参道が覆屋の向拝の幅に合わせて整備され、繰り返し整地が施されたのでしょう。
②現在の覆屋に先行する覆屋の柱跡
この整地層を除去すると、地表から下約20センチメートルのところで暗褐色の地層が現れ、この暗褐色の土を掘り込んで作られた柱跡がみつかりました。地面に穴を掘り、柱の根本を埋めて建てられた掘立柱式の建物で、現在の覆屋の建物と平行して、およそ1.8メートルの間隔で並んでいます。柱跡は、建物が廃絶する際に柱が抜き取られ、抜き取り穴に岩の破片を充填して埋めているため、柱があった場所に岩片が密集した状態でみつかりました。前述した現在の覆屋に伴う整地層が、この柱跡の上に被さって堆積していることから、柱跡はそれより前に存在した建物に伴うものと考えられます。柱穴が掘り込まれた暗褐色の土も、これに伴う整地の跡でしょう。
先行する覆屋の柱跡
出土した江戸時代の銭貨(寛永通宝)
建物は、柱の配置から、少なくとも3時期にわたって建てられていたようです。この建物が建てられた年代は詳しく分かりませんが、現在の覆屋と間口や柱配置が共通することから、現在の覆屋は、この建物の規模や構造を継承したものと考えられ、逆に発掘調査で発見された柱跡は、現在の建物の直前にあった建物ということになります。現在の覆屋は、昭和28年に建てられたことが分かっていますので、発掘調査で見つかった柱跡は近代(およそ明治維新から太平洋戦争終結まで)頃に存在した建物に伴うものと推定できます。ただし3時期の変遷があることから、古いものは近世(江戸時代頃)まで遡る可能性もあります。江戸時代に流通した銭貨である寛永通宝が、柱跡の周辺からとくに多く出土している点も、そのことを示しています。出土した銭貨は、お賽銭に用いられたものでしょう。石仏を保護する覆屋が古くから存在し、それが繰り返し立て直されていたことが分かります。
③平安時代の土器により、石仏の年代観に裏付け
黒色土とその下層の造成土・旧表土
この褐色の土を掘り下げていくと、地表から下約30センチメートルのところで、真っ黒い地層が顔を出しました。この黒色土層は5~10センチメートルほどの厚さで堆積しています。この一帯の地山(自然のままの地盤)は、遺跡が存在する丘陵の基盤を構成する黄褐色の土や岩が風化し、周辺に生育した植物の枯葉などによる有機質の土(腐葉土)と自然の営力で混ざりながら堆積したものです。このため通常の堆積環境では、この場所の地山は暗褐色から黄褐色をしているはずです。したがって、ここに真っ黒い色をした土が堆積しているのは特異です。実は、この真っ黒い土は、多量の炭化物(炭)と土砂が混ざり合って形成されたものです。炭化物は自然に生じたものではなく、周囲で盛んに火が焚かれたことでできたものと考えられます。この場所で火が焚かれたとすれば、それは、仏様の前で加持祈祷を行うために、護摩を焚いたとみて間違いありません。
さて、この黒色土層のなかから、今から1200年以上前の平安時代前期、9世紀初頭頃から10世紀前半にかけての土器が出土しました。土器は「坏」と呼ばれる、深い皿のような形をしたものです。内面にタール状の付着物のみられるものがあることから、食事に使われたものではなく、なかに油を入れて明かりを灯した、灯明皿として使用されたものであることが分かります。これも、仏様に灯明を捧げる仏教の儀式に用いられたものでしょう。
薬師堂石仏は彫刻の特徴から、これまで「弘仁貞観仏」とされてきました。「弘仁」は西暦810~824年、「貞観」は西暦859~877年に当たり、9世紀初頭から後半の年号です。出土した土器の年代は、仏像の様式からの推定を裏付けるものとなりました。
④古代の大規模な造成によって、現在の平場が形成された
造成土とその下の旧表土
黒色土の下には、黄褐色の土層が分厚く堆積していることが分かりました。この黄褐色土層は、一帯の自然の地山が掘り返され、人為的に埋め立てられたもので、堆積は厚いところで1.5メートルを超えています。この黄褐色土を掘り下げていくと、暗褐色の地層と、一帯の丘陵の基盤となる岩の塊が現れました。この暗褐色の土は、石仏の方へ向かって登っていく斜面となっています。石仏は丘陵の中腹に作られていますので、石仏の前面の本来の地形(=旧地形)が急な斜面となっており、暗褐色土は、丘陵の基盤となる土と腐葉土によって形成された、石仏が作られる前の地表面(=旧表土)と分かりました。
黄褐色土は、この旧地形の傾斜を埋めて、平坦な広場を造成したものとみられます。薬師堂石仏の掘り込まれた岩窟は、間口がおよそ15メートル、高さが約5.5メートル、奥行が約3メートルの規模をもちます。丘陵斜面に巨大な岩窟を掘ったことで生じた大量の残土を利用して、石仏の前面に平場が造成されたと考えられます。私たちが現在、見ることのできる、石仏の前面にひろがる平場は、平安時代に、そこで土器を用いた仏教儀礼が行われる以前に大規模に造成されたものであったことが分かりました。
ここまで、薬師堂石仏の発掘調査について、新しい地層から古い地層へと、実際に掘り進めた順序にしたがって、発見されたモノについて説明してきました。この場所で一番古い地層にたどり着いたところで、今回のお話は終わりにします。
次回は、発掘調査で見つかったモノから一歩踏み込んで、「大悲山の石仏」の歴史の一端に迫ってみます。
(藤木 海)

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更新日:2026年02月01日