薬師堂石仏の調査成果(後編)(令和8年3月1日)

更新日:2026年03月01日

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馬、甲冑姿の男の子、たんぽぽ、雛人形などが並ぶ帯状の画像

 前回は、薬師堂石仏の発掘調査で見つかった整地跡や建物跡、土器などの出土品について紹介し、そこから何が分かるのかについて、解説しました。今回は、発掘調査で判明した事実から一歩踏み込んで考察を加え、「大悲山の石仏」の歴史の一端に迫ってみたいと思います。

⑤出土遺物からわかること

出土した瓦

出土した瓦の破片

 調査で掘り下げた各時代の地層からは、前述した平安時代の土器や江戸時代の銭貨のほか、鎌倉時代の(とこ)(なめ)(やき)の甕もみられます。さまざまな時代の遺物が出土していることから、古代にこの場所に磨崖仏が作られて以来、中世、近世、さらには近・現代に至るまで、人びとが活動を続けてきたことが推測できます。

 最も出土が多かったのは、赤褐色を呈する(ゆう)(やく)が施された陶器瓦の破片です(以下、「赤の陶器瓦」と呼ぶ)。ほかに、黒色の釉薬をかけた陶器瓦(「黒の陶器瓦」)、釉薬を使わずに(いぶ)して焼成された燻し瓦も少量ずつみられます。黒の陶器瓦は、現在の覆屋の屋根に()かれているのと同じものです。赤の陶器瓦と燻し瓦は、それより前に使われたものとみています。前述のとおり、薬師堂石仏の現在の覆屋は昭和28年(1953)に建てられたものですが、昭和末から平成初期の保存修復事業の際に補修が行われています。この時に屋根の葺き替えも行われたと考えられ、黒の陶器瓦は、この時から使用されたのではないかと思います。一方、赤の陶器瓦は、平成23年(2011)の東日本大震災後に再建された観音堂石仏の現在の覆屋の前世代、すなわち昭和34年(1959)に建てられた覆屋の瓦と共通します。薬師堂石仏の覆屋の建設はその5年前で時期が近いことから、赤の陶器瓦はこの頃に使われたと考えるのが一案です。薬師堂石仏の覆屋は、建設当初は赤色の屋根だったのかもしれません。残った燻し瓦の時期は不明ですが、赤・黒の陶器瓦よりも古い時期のものとみています。

 このように、出土した瓦からも、覆屋が幾度かの改修を経ていることが分かり、石仏に関わる歴史の一端を知ることができます。「()(れき)」とは、無用なものを意味する言葉ですが、考古学では、この土器や瓦などの瓦礫から過去と現在を結ぶ情報を探り、歴史を明らかにしていきます。

⑥建物跡はいつできたのか?

 発掘調査では、3時期にわたる覆屋の柱跡が見つかりました。前述のように、その年代は不明ですが、古いものは江戸時代に遡る可能性があります。現在、石仏の日常管理を担っている大悲山三尊保存会の前身である大悲山霊場保存会によって編纂された『大悲山沿革史』(以下、『沿革史』)には、古くは(じょう)(きょう)元年(1684)3月17日に、薬師堂の覆屋が建立されたことが書かれています。これがもっとも古い覆屋の記録です。この時の覆屋は、岩の崩落によってつぶされ、戊辰戦争をはさんだ数十年の期間、風雨にさらされた状態であったが、その後、明治8年(1875)に覆屋が再建されたと、『沿革史』は伝えています。発掘調査で見つかった柱跡は、この時期のものであった可能性があります。

 その後、昭和5年(1930)の国史跡指定などのいくつかの画期を経て、昭和28年の現在の覆屋が建てられます。このように、発掘調査でみつかった柱跡は、『沿革史』に記載のある何らかの出来事を契機として、増築や改築が行われたのではないかとみています。『沿革史』のような記録と考古学の成果を対照することで、大悲山の石仏の歴史が、より詳しく判明することでしょう。

⑦5体目の如来形坐像はあった? なかった?

 薬師堂石仏には、一つの謎があります。岩窟のなかには、厚肉彫りの(にょ)(らい)(がた)()(ぞう)が4体、()(さつ)(がた)(りゅう)(ぞう)が2体彫り出されています。如来形坐像である4号像の像高は305ンチメートル、1尺=約30センチメートルでおよそ10尺、1・3・5号像は270~279センチメートルでおよそ9尺です。4号像が少し大きく作られていることから、この岩窟のなかで主尊と考えられます。その両脇に如来形坐像である3号像と5号像、さらにその両脇に菩薩形立像である7号像と6号像を彫り出し、全体としては4号像を中心に、左右対称に仏像が配置されていると考えられます。分からないのは、岩窟の右端、側壁に当たる位置に、岩窟の外を向く他の像と異なり、やや内側を向く如来形坐像、1号像があるのですが、これと対になる如来形坐像が左端にはないことです。少し大きく造られている4号像を中心と考えると、5体目の如来形坐像が左端にあっても不思議ではなく、昭和40年代に石仏の修理に携わった美術院国宝修理所は、かつては存在したが失われたと想定し、同所が制作した復元図では、左端に如来形坐像がある状態を復元したイラストが描かれています。しかし、現在は、その痕跡すら認められません。

薬師堂石仏の配置復元図

上:薬師堂石仏の3次元計測画像、下:美術院国宝修理所による想像復元図(昭和43年[1968]修理工事報告書より)

柱跡

覆屋の柱跡(人が立っている位置が柱跡)

 ところで、仏像を安置する仏堂は、堂内の仏像の配置を考慮して設計されます。たとえば、中央の主尊が柱の間から拝めるように、間口が3間や5間など、奇数間に設計されるのが一般的です(三間堂、五間堂などといいます)。薬師堂石仏の覆屋も同様に、石仏の配置を考慮して柱を立てたことが推測されることから、発掘調査で古い時期の建物跡が見つかれば、柱跡の配置を手掛かりに、古い時代の仏像の配置を推測できるのではないかと考えました。前述した江戸時代から近代にかけてと推定される柱跡は、岩窟に向かって右側は1号像のほうまで柱がありますが、左側は6号像の辺りまで並び、その先では見つかりませんでした。6号像の左側にもう一つ如来像があれば、覆屋もそちらまでひろがり、柱もそれに対応して作られるはずです。したがって、この建物が建てられた時期には、6号像の左側に仏像はなかったと推定されます。ただし、今回の調査で見つかった柱跡は古くても江戸時代で、それ以前の状況は不明です。石仏の造営当初には、5体目の如来像があったかもしれませんが、この問題は未解決のままとなっています。

⑧石仏が作られた順番

 前述の黒色土から出土した平安時代の土器は、多くが「()()()」と呼ばれる素焼きの土器です。土師器は古墳時代からの伝統を引き継いだ土器ですが、平安時代にはロクロの回転を利用して形が作られます。この時期の土師器は内側を燻して黒くする特徴があり、これも古墳時代からの伝統的な技術です。専門家の間では、これを「内黒の土師器」と呼んでいます。土器の内側を黒くする技術は9世紀の終りには衰退し、10世紀になると行われなくなっていき、ロクロで作られ内黒でない土師器が、以後の主流になります。これを「(あか)(やき)()()」などと呼びます。

 研究者はこうした土器の変化を知っているので、ロクロを使用して作られた「内黒の土師器」は9世紀、「赤焼土器」は10世紀と推定できるのです。ただしこの変化は、ある時点で、一方が他方にコロッと入れ替わるのではなく、古いものが減少し、新しいものが増加することにより、徐々に交代していくのが普通です。薬師堂石仏の調査では、赤焼土器も少量出土しています。

内黒の土師器

内黒の土師器

赤焼土器

赤焼土器

 12年前の平成25年(2013)に、東日本大震災で倒壊した覆屋を再建するため観音堂石仏の前で実施した発掘調査の際には、赤焼土器が多く出土しました。少量の内黒の土師器もみられます。つまり、観音堂石仏は内黒の土師器→赤焼土器への交代が進んだ時期、10世紀前半に中心があります。

 一方、今回、薬師堂石仏では内黒の土師器が多く、赤焼土器が少ないことから、交代が進む前の9世紀に中心があることが分かりました。したがって、土器の年代からみると薬師堂石仏のほうが古く、観音堂石仏が新しいことになります。なお、阿弥陀堂石仏も令和元年(2019)に発掘調査を行っていますが、古代の土器は出土していません。彫刻も剥落しているため、阿弥陀堂石仏の年代はまったくの不明とせざるを得ません。ただし、「阿弥陀仏」とされる言い伝えを踏まえ、浄土信仰が流行する平安時代後期(11〜12世紀)とする意見があります。これを鵜呑みにすることはできませんが、仮に正しいとすれば、薬師堂石仏→観音堂石仏→阿弥陀堂の順に造営されたことになります。

 阿弥陀堂石仏の年代は課題として残りますが、大悲山の石仏でこれまでに行われた発掘調査によって、3石仏の関係も少しずつわかるようになってきました。

 前回と今回の2回にわたって、薬師堂石仏の発掘調査成果を紹介するとともに、現時点で導き出せる解釈や課題について述べてきました。

 発掘調査は、現地での作業が終了したら、それで終わりではありません。これから、発掘遺構の図面や写真を整理するとともに、出土した遺物を丹念に調べ、その知見を調査報告書にまとめる仕事が待っています。こうした整理調査を通して、現地調査をしているときには気付かなかった新たな事実が判明し、調査時の考えに修正を余儀なくされることもよくあります。ここで記した内容も、整理調査によって変わるかもしれません。このページが新たな事実によって更新されるのを、ぜひ楽しみにしてください。

(藤木 海)

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