江戸時代の野馬追はどれくらい有名だった?(令和7年5月1日)

約400騎もの騎馬武者たちが勇壮に繰り広げる「相馬野馬追」は、まさに現代に鮮やかによみがえった武者絵巻として、武家の伝統を受け継ぐ伝統行事でありつつ、相馬地方を代表する「観光資源」でもあります。例年7月開催でしたが、昨年(令和6年/2024年)は猛暑を避け開催日を5月に変更したことで、熱中症などのリスクが下がったことなどが功を奏したのか、観覧客数はのべ約13万500人と、一昨年を9100人上回ったそうです。
その観光資源としての側面は、江戸時代からすでにありました。中村藩主相馬家の年中行事として開催されていた野馬追は“見もの”としても人気があり、各地から武士、農民、商人、僧侶、山伏など身分を問わず、多くの見物人たちがやってきて、野馬追を楽しんだようです。

江戸時代、野馬追を楽しむ「見物衆」たち(右上)
「奥州相馬氏馬狩図」(当館蔵)より
記録(『相馬藩世紀』等)によれば、正徳3年(1713)は他地方から6748人、寛政11年(1799)には2万4800人あまり、享和3年(1803)4万7800人(うち4万2300人が他地方から来訪)、文政4年(1821)2万9488人、天保11年(1840)4095人(凶作で人数が少なかった)、安政6年(1859)約1万人(うち4470人が他地方から来訪)と、たくさんの人が野馬追見物にきていました。
野馬追の知名度バロメーター「諸国御祭礼番付」
野馬追は、今でこそ相馬地方のみならず福島県、はては東北地方を代表する祭礼として、テレビ、新聞、SNSなどで紹介されることもあり、相応の知名度があります。しかし、そのようなメディアがなかった江戸時代、多くの見物人たちが来ていたとはいいながら、実際にはどれほど名が知られていたのでしょう。そのバロメーターともいえるのが、今回紹介する「諸国御祭礼番付」(江戸時代末期)です。

「諸国御祭礼番付」(右)の「年寄」枠に書かれた「陸奥相馬妙見祭(野馬追)」(左:赤枠内)
江戸時代から明治時代、相撲の力士の番付のように、さまざまな事物をランキングした「見立番付」と呼ばれる刷り物が流行しましたが、この「諸国御祭礼番付」もそのひとつで、全国各地の祭礼をランキングしたものです。つまり、ランクが高ければ知名度も高い祭礼、といえます。ちなみに「東之方」(おもに東日本)の大関は山王祭(東京・日枝神社)、「西之方」(おもに西日本)の大関は祇園祭(京都・八坂神社)です(当時は横綱ではなく大関が最高位)。このような、並み居る全国各地の祭礼のなかで、野馬追はどこにランクインしているでしょう?
野馬追は「東之方」に載っているだろうと探してみると…載っていません。まさかのランク外か…と思いきや、よくよく探すと意外にも中央の「年寄」枠内に「陸奥相馬妙見祭」とあります。これこそが「陸奥国の相馬家による妙見の祭礼(妙見に野馬をささげる祭礼)」、つまり野馬追のことなのです。
年寄は、簡単にいえば相撲経験者で興業の役員のこと。今の相撲界でいえば「親方」あたりでしょうか。ということは、野馬追はもはやランクを争うポジションではなく、別格の位置だった、ともいえます。古い伝統を持つといわれる行事だからこその位置付けかもしれません。
ということで、この番付表からも、野馬追は江戸時代から相馬名物として相応の知名度があったことがうかがえます。ただひとつだけいえば、野馬追の日付が「五月中の申」ではなく「五月中の酉」と、間違って記載されているのが残念です…(版元に指摘してあげたい)。
(二上 文彦)

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更新日:2025年05月01日