原町の歴史から戦争と平和について考えよう

更新日:2019年06月14日

1.はじめに

市では、毎年原爆死没者と戦没者の冥福と世界平和の願いを込めて、8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日、そして8月15日の終戦記念日にサイレンを鳴らしています。

令和の時代が幕を開けました。
昭和の時代、戦争によって多くの日本人が犠牲になったこと、南相馬市の前身の1つである原町で起きたことなどを知ってもらうために、原町の戦争関連の歴史を盛り込んだ特集ページを開設しました。

原町にはかつて飛行場があり、全国各地から飛行兵が集まり、原町で生活していました。
市内には遺構や慰霊碑がありますので、この機会に博物館や夜の森公園、原町飛行場跡地などに行って、戦争と平和について考えてみませんか。

2.なぜ原町に陸軍飛行場が誕生した?

昭和6年、原町は昭和の恐慌から脱却し地域を発展させるために、飛行場誘致活動を積極的に行いました。
活動から5年後の昭和11年11月4日、6機の飛行機を埼玉県の所沢飛行場から迎えて、雲雀ヶ原飛行場が開場しました。
翌年には県営飛行場として、昭和15年6月には陸軍の熊谷陸軍飛行学校(埼玉県)原町分教場として開場しました。
その後、茨城県内の各陸軍飛行学校に移管となり、昭和19年に鉾田(ほこた)教導飛行師団原町飛行隊と改称されました。
太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦特攻隊錬成基地として、陸軍特別攻撃隊原町飛行隊を編成し、若い飛行兵を次々と戦地に派遣しました。

原っぱにコンクリート製の策が無数に並んだ写真

▲原町飛行場の格納庫跡

原町飛行場と周囲の関係施設を示した地図

▲原町飛行場のあった場所の地図

3.最初の特別攻撃部隊には原町出身者がいた

特別攻撃隊(特攻隊)とは、太平洋戦争の末期に旧日本陸海軍が体当たり戦法のために、特別に編制した部隊のことです。戦局が不利になってきた頃、軍首脳部は有効に敵艦に打撃を与える方法はこれ以外にないと判断し、爆弾を抱えた飛行機で米軍の戦艦に体当たりする自爆攻撃(特攻)を行うことを決めました。

昭和19年10月25日のフィリピンのレイテ沖海戦で、海軍神風(しんぷう)特別攻撃隊(カミカゼ特攻隊という名で知られる)「敷島隊」5機により、海軍が組織として採用した初めての体当たり攻撃が行われました。
隊員5人の中には、原町出身の中野磐雄海軍一等飛行兵曹がおり、特攻により19歳の短い生涯を終えました。

耳当て付きの防止とゴーグルを付けた5人の男性と軍服の男性1人の白黒写真

▲出撃前の神風特別攻撃隊敷島隊(兵士5人のうち、左から2番目が中野兵曹)

さらに昭和19年11月6日には、石神村出身の海軍志願兵だった志賀敏美(20歳)が、ルソン島の東方上空で第四神風特別攻撃機を敵機の攻撃から護衛するために飛行している際に、敵機と交戦し2機を撃墜するものの、被弾して戦死しました。

夜の森公園には、中野磐雄海軍少尉と志賀敏美海軍少尉の慰霊碑が建立されています。

爆弾型のモニュメントと飛行兵姿の男性の胸像の写真

▲中野磐雄之像

飛行兵姿の男性の胸像の写真

▲志賀敏美之像

4.東北初の空襲を受けた原町

アメリカ軍は、昭和19年11月になると、全国の都市や工場の状況を把握するため、日本本土上空に空中撮影の専用機を飛ばすようになりました。

昭和20年2月16日、飛行中に町や工場をたまたま発見したアメリカ軍は、原町紡織株式会社の工場に空襲を仕掛け、男女4人の命が犠牲となりました。
これが東北地方への最初の空襲でした。
3月の撮影時には原町飛行場を発見し、「HARANO」と名付けて、目標番号「2883」と設定したという記録が残っています。

3月9日から10日までの東京大空襲をはじめ、全国各地で都市部への空襲が本格化していき、6月頃から地方の中小都市への空襲が始まりました。
原町では、8月9日、10日の2日間、二度目の空襲の被害を受けました。
ターゲットだった原町飛行場の主要部はほぼ破壊されたほか、原ノ町駅や片倉製糸紡績株式会社原町工場、原町紡織工場、帝国金属工業株式会社の工場、原町役場、さらに原町国民学校と相馬農蚕学校なども大きな被害を受けました。
町が破壊され、10人の命が犠牲となり、町民にとって忘れられない2日間になりました。

5.沖縄戦、そして終戦へ

日本軍は、アメリカ軍が昭和20年4月1日に沖縄本島に上陸してからは、日本本土に攻め込まれないようにと、沖縄になるべくアメリカ軍をひきとめて時間をかせぐ持久戦の作戦を立て、地下壕にもぐって抵抗しました。
この戦いは、一般的に沖縄戦と呼ばれています。
空からの攻撃(空襲)に加え、艦砲(かんぽう)射撃(しゃげき)(ほう)爆撃(ばくげき)による「鉄の暴風」は約3カ月続き、軍民あわせて20万人以上の命が犠牲となりました。

沖縄戦の戦力差は歴然で、アメリカ軍約55万人に対し、日本軍は約10万人でした。
その上、日本軍約10万人のうち2万数千人は、沖縄にいる一定の年齢の男子を急きょ兵隊として集めてつくられた「防衛隊」や「義勇隊」、今の中学生や高校生でつくられた「学徒隊」でした。

圧倒的劣勢の中でも日本軍は特攻を続け、原町飛行場で編成されてそのまま沖縄に飛び立ち、散っていった部隊もありました。
日本軍のトップだった牛島司令官は、降伏するのではなく、死ぬまで戦うことを命じ、6月23日に自決しました。
この日を沖縄県では慰霊の日と定め、県民の休日としています。

沖縄が占領され、日本のまわりの海や空もアメリカ軍に支配され、敗戦は決定的な状況でしたが、連合国(アメリカ、イギリス、中国)の無条件降伏を日本は受け入れませんでした。
そこでアメリカ軍は、8月6日に世界で最初となる原爆を広島に投下し、その3日後の8月9日には、長崎にも投下しました。
昭和20年末までに、広島で14万人、長崎で7万人以上が亡くなったといわれています。

原爆の被害は大きく分けて熱線、爆風、放射線の3つです。
熱線で爆心地付近の温度は3,000~4,000度にもなるため、熱線を浴びた人のほとんどがその瞬間に死亡し、爆風で吹き飛ばされたり、倒壊した建物につぶされて死亡した人もたくさんいました。
また、放射線の影響により、歯茎から血が出たり、髪の毛が抜けたりする「急性症状」が出たほか、甲状腺機能低下により、がんなどで亡くなる人が増えたそうです。

明治27年の日清戦争、そして明治37年の日露戦争で連勝し、勝利の美酒の味を知っていた日本は、第二次世界大戦(太平洋戦争)敗戦により痛手を負いました。

6.慰霊行事の開催

このように、原町は先の戦争により、多くの悲劇を経験しました。
昭和27年に連合国軍による占領が終わると、制限されていた遺族会が全国各地で結成され、公的な慰霊行事も始まりました。

原町飛行場が特攻隊の訓練基地であったことから、原町では戦死した特攻隊員と原町空襲の犠牲者を慰霊の対象として、元特攻隊員や原町飛行場に関わった方々が原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会を組織して慰霊行事を実施しました。
地元出身の戦没者以外も慰霊の対象としたのは、全国的にもまれなことでした。

第一回は昭和46年8月15日に市営原町陣ヶ崎公園墓地で「原町飛行場関係戦没者慰霊碑除幕式ならびに合同慰霊祭」として実施され、以降は平成29年まで、毎年秋に慰霊祭を開催していました。

飛行兵姿の男性の銅像の写真

▲原町陣ヶ崎公園墓地に立つ原町飛行場関係戦没者慰霊碑

地元出身の戦没者の慰霊行事としては、原町、小高、鹿島それぞれの地区で行っていました。
平成18年の(南相馬市)合併後は、南相馬市遺族会が毎年秋に南相馬市戦没者追悼式および慰霊祭を開催しています。

南相馬市戦没者之霊と書かれた柱を拝む女性の写真

▲平成30年度の南相馬市戦没者追悼式

紹介した場所

  • 夜の森公園
    所在地:南相馬市原町区三島町1丁目
  • 原町飛行場跡地
    所在地:南相馬市原町区本陣前、陣ヶ崎、大木戸、馬場の一部
  • 原町陣ケ崎公園墓地
    所在地:南相馬市原町区上太田字陣ケ崎612番地

原町飛行場についてもっと知りたい方へ

博物館には、原町飛行場に関する常設展示があります。
詳しく知りたい方は博物館にお問い合わせください。

南相馬市博物館

所在地:〒975-0051 南相馬市原町区牛来字出口194

電話:0244-23-6421

参考文献

『原町市史 2 通史編2. 近代・現代』南相馬市(2018)(P174、180、182~185、414~415)

原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会編『原町戦没航空兵の記録』株式会社白帝社(1998)(P44~99)

関連ページ

この記事に関するお問い合わせ先

健康福祉部 社会福祉課 社会福祉係

〒975-8686
福島県南相馬市原町区本町二丁目27(東庁舎1階)

直通電話:0244-24-5243
ファクス:0244-24-5740
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